寄稿者さまから

引揚記念館の紹介と次世代へのメッセージ
舞鶴引揚記念館館長 嵯峨根吉宏

今年で第二次世界大戦が終結して八〇年、さらに海外引揚げ開始から八〇年という大きな節目の年を迎えています。京都府舞鶴市は、八〇年前の一九四五(昭和二〇)年一〇月七日に第一船である「雲仙丸」が入港して以来、一九五八(昭和三三)年まで一三年間あまり、中国・旧ソ連方面からの引揚三四六隻、約六六万人の引揚者を迎え入れた「引き揚げのまち」です。

舞鶴港への入港時には、戦後の混乱にもかかわらず多くの舞鶴市民が集まり、筆舌に尽くしがたい労苦の末、引き揚げられた皆様に「おかえりなさい」「ご苦労さま」と声をかけ、お茶や蒸かし芋をふるまうなど、真心をもって温かくお迎えいたしました。その後、引揚者の皆様からの感謝の言葉として多くの証言や記録が残していただいております。このことは、市民の誇りであり、後世に語り継ぐべき舞鶴市の大切な歴史となっております。

舞鶴引揚記念館は、一九八五(昭和六〇)年に海外引揚四〇周年事業「引揚港まいづるを偲ぶ全国の集い」が舞鶴で開催され、再び舞鶴を訪れられた全国のシベリア抑留体験者や引揚者などから「異国でなくなった人に思いをはせてほしい」「恒久平和を願う」との思いで、舞鶴市へ記念館建設を熱望されたことをきっかけとして、引き揚げと、シベリア抑留の史実、平和の尊さを後世に語り継ぐため一九八八(昭和六三)年に開館しました。

開館の翌年から体験者が抑留生活や引き揚げ体験などを来館者に伝える「語り部」活動を開始しましたが、時代とともに体験者が徐々に減少する中、歴史を風化させないため二〇〇四(平成一六)年に舞鶴市が「語り部養成講座」を開講し現在に至っています。講座の修了者により新たな「語り部」として取り組みを始めたNPO法人「舞鶴。引揚語りの会」は、今年で二〇周年となっています。

さらに、「次世代への継承」を推し進めるため、若い世代にも分かりやすく共感できる展示内容への施設も全面的にリニューアルし、二〇一五(平成二七)年には収蔵資料の世界的貴重性が認められ「ユネスコ世界記憶遺産」に登録されました。近年では、「次世代への継承」から次のステージへと進めた「次世代による継承」に積極的に取り組んでおり、中学生から大学生までの「学生語り部」(四六名)が継承活動に取り組んでくれています。

戦後八〇年が経過し、多くのシベリア抑留者の年齢が一〇〇歳を超える中、「体験なき戦後の始まり」を迎えようとしています。抑留や引揚を体験した方から直接に体験を聞けることが貴重になっている中、歴史の重要性を認識し過去から学び、未来へ向かって自分に出来ることを考え行動することが大切になります。学生語り部は、本年七月に開催した「次世代が考える平和未来ワークショップ」において、市内外から地域を超えて集まった若い世代と戦後一〇〇年を見据え、世界の状況にも目を向けながら、自らの活動を発表し、意見交換をしました。また八月には、大阪・関西万博において、国内外の来場者に、自らの言葉で史実と思いを発信しました。学制語り部の活動は、若い世代が貴重な地域の歴史を学び、自ら伝える「次世代による継承」であり、平和な未来にとって大きな希望と考えています。

この度の本企画も「記録として後世に残したい」という思いから若い世代で始められ、戦争を知る世代の方々からの体験などが寄せられていると伺いました。親、祖父母、曽祖父母、など体験者のご家族や身近な方から体験談を聞くこと、当時の写真や日記など資料があれば観せていただきエピソードなどを書き記すことから次世代へ伝えることができます。それば、体験者の想いを繋げていく語り部となることに通じていると思います。

舞鶴引揚記念館は、これからも次代を担う若い世代をはじめ、幅広い世代の皆さんとともに平和への願いを絶えることなく発信していけるよう努めてまいりますので、引き続きご理解ご支援をお願いします。

オーラル・ヒストリーや個人史を「神話化される歴史」にさせないために
―我々が気をつけるべきこと―
同志社大学政策学部准教授 富樫耕介

 戦後80年を振り返り、戦争の記録や記憶を再考しようとする本誌の視点、特にその際に個人史に焦点を当てようとする努力が必要であることを、ここでいま一度確認することには少なからぬ意義があるだろう。

 歴史とは、個々人の「記憶」や「記録」の集合体によって形成されるものだが、往々にして知識人やエリートの歴史が継承されがちである。戦後の日本においても、社会階級上は、むしろ少数派であったはずの将校や政治家、官僚などのエリートが戦後に「あの戦争」を語る傾向が見られた。文章を残し刊行すること、そのものが大衆ではなく、知識人やエリートの営みである以上、そして私家版であれ何であれ、名もなき大衆の著作を現実には世に問うことが困難な以上、これは当然のことでもある。

 しかし、「あの戦争」を振り返るときに、いわば、名もなき一人一人の大衆がいかなる状況に置かれたのかということも、無視できない重要性を有する。これは、「一億総玉砕」というスローガンに見られるように戦争の挽臼の中で、粉々に砕かれ、大きな犠牲を強いられたのは、その意思決定に何らかの形でかかわったエリートたちよりも、蚊帳の外に置かれた大衆の方であったからである。

 また大衆と一口に言っても、彼らの置かれた状況も実に多種多様であった。広島や長崎で被爆した人々、東京大空襲で家族を失った人々、あるいは沖縄戦で「鉄の雨」に晒され全てを失った人々、南方や北方に出た兵士、あるいは満洲に移住した開拓民やその家族、サハリンや台湾など日本の旧植民地にいた人々、それぞれに戦前、戦中、戦後にいくつものストーリーがある。「あの戦争」が彼らに一体何を経験させ、あるいは彼らはいかにそれを記憶し、また記録に残したのかは、戦争を知るために欠かせない。こうした重要性は、ノーベル賞作家のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの一連の著作(2016a, b, 2022)に見られるように、政治家や将校、知識人よりも、大衆(女性や子供などの弱者)の経験と記憶が戦争を最も雄弁に語ってくれるということからも明らかだろう。

 しかし、問題は、まさにここにある。彼らの記憶や記録のうち、我々がどれを取り上げ引用し、あるいは他者に伝えるのかで、戦争への評価は変わり得てしまう。私はここであえて注意を喚起したい。つまり、戦争の記録や記憶を個人史から再考しようとする我々は、その危険性もしっかり理解しているのだろうか。つまり、調査する我々が、十分に研究して、彼らの記憶や記録を吟味し、客観的・中立的に検証できる立場にあるのかという点が死活的に重要なのである。この点を無視して、記憶や記録をそのまま伝えるべきだと考える者がいるとすれば、それはあまりにもナイーヴ過ぎて、危険ですらある、と伝えておきたい。

 では、我々は、語られる個人史といかに向き合うべきだろうか。個人史は、実体験に裏打ちされたストーリーであり、これはそれ単体としては、一般化困難であるという当然の事実を確認するべきであろう。また当人による記憶の「再現性」の問題もある。いつ、どのような形で振り返ったのか、私的にか、親族からの聴取か、あるいは戦友会という場でか、はたまた行政機関やジャーナリストによる聴取かでも、回答は微妙に変化し得る。では、当時の日記であれば、誰にも見られるものではないから、より直接的な記憶や記録であると思うかもしれない。しかし、そこでも検閲の恐れもあるし、日記という記録に、正直に自らの弱さや心情まで吐露するのかも、個人の性格などで異なってくる可能性がある。つまり、そもそも聴取する我々が彼らを取り巻く社会環境について、戦前であれ、戦中であれ、戦後であれ、一定の知識がなければ、これらの記憶や記録を十分に理解することなどできないのである。

 もう一つは、記憶や記録の多くが、事後的解釈であり、それは当人の感情や思想・主義主張と切り離しが困難な場合もある。自らの政治信条や思想は、日本では、必ずしも家庭内で共有されない。祖父母や曽祖父母が購読していた雑誌、書棚にある本、あるいは参加していた社会団体などから、または彼らの日記やオーラル・ヒストリーなどから、これらを推測することも欠かせないだろう。

 しかし、このようなことに取り組んでも、ミクロな視点は、所詮、ミクロな視点であるということにも我々は冷静に向き合わなくてはならない。つまり、彼らの言説や記憶、記録だけで、より大きな文脈の何かがわかるわけではない、そこには一個人の振り返りである以上、マクロな視点は往々にして不在であり、観察者である我々がマクロな視点とミクロな視点を接合し、オーラル・ヒストリーや記録を批判的に分析する必要があるからである。

 例えば、私はシベリア抑留経験のある祖父のオーラル・ヒストリーを聴取したが、この際には、二つのことを念頭においた。まずは、語られる個人史をシベリア抑留研究の中にいかに位置付けるのかという問題である。歴史とは、いわば個々人の「記憶」の集合体として形成されているという観点から、祖父の経験や記憶に注目する必要性を私自身は強く感じた。つまり、新潟の農村から台湾の呉服屋に奉公に出て、戦前は東京で印刷工として働いていた祖父は、徴兵されるまで、極めて一般的な農村出身者であった(余剰労働力から台湾や東京への出稼ぎ、その後、入隊)。個人に注目し、その足取りをシベリア抑留者が置かれた同時代的な歴史と重ねることで、例えばシベリア抑留経験者の抑留経験を分類、類型化する際の着眼点を祖父の事例の考察から得られるかもしれない。つまり、マクロな視座への貢献である。

 もう一つは、シベリア抑留を個人史研究の中で問い直すという点である。個々の人々がいかにシベリア抑留を経験し、それが彼らにいかなる影響を及ぼしたのを明らかにすることが重要な課題となる。しかし、こうした試みは、親族による「記憶」の「記録」の試みとして、おざわ(2012)、久保田(2017)なども既にあり、私家版の自費出版でも類書は既にあった。往々にして、これらの著作物は、マクロな観点(シベリア抑留研究全体)との接合が希薄になりがちだが、単なる個人史に留まれば、――その家族にとっては重要な意味を持っても――学術的意味は少ないと言わざるを得ない。私が祖父のオーラルヒストリーを聴取し始めた時には、個人史に軸足を置きつつも抑留研究を意識した研究はほとんどなかった。これは小熊(2015)も同じで、シベリア抑留研究に注力した故・富田(成蹊大学名誉教授)がかつて述べたように「小熊は日本近現代社会史研究ではあるが、抑留研究ではない」。果たして、彼らのシベリア抑留という経験は、彼らの人生にいかなる影響を及ぼしたのか。これは、戦後の彼らの歩みや戦友会などとのかかわりなどを見なければ、分からず、となれば、これらの社会的組織や戦後の同時代史の動きもやはり理解しなければならないのである。

 ここで、再び、私たちは調査や聴取に関する課題と向き合わなければならない。つまり、シベリア抑留経験者であれ、他の戦争経験者であれ、存命の者は高齢化しており、記憶が曖昧になり始めている。聴取する側も彼らのおかれていた状況(所属部隊や収容所分所などの細かな情報)を知らなければ、正確な理解ができない。従って、我々は、調査にあたり、例えば戦前・戦中の日本社会史や政治史、あるいは軍隊の制度、駐屯地や派遣先、軍務、生活などについての一般的理解をつけた上で、兵籍簿、シベリア抑留経験者であれば、抑留者名簿、あるいは引き上げ時の身上申告書などの資料を入手し、知識を得ている必要がある。

 図:富樫(2018, 2019, 2020)で試みたアプローチ(出典:富樫作成)

 私は、これらに加え、祖父の私家版小冊子(本山 1991, 1998)と戦友会の刊行物(佳院会1977など)を活用した。その上で、オーラル・ヒストリーの聴取は、以下のように実施した。まず基本的に、戦前から戦後まで事前に複数の質問を用意し、1〜2時間のインタビューで順を追って祖父のそれに回答してもらう形式とし、複数回実施した。祖父の回答は、基本的にICレコーダーで録音し、私自身が文字起こしをし、事実関係の資料的裏付けを取ろうとした。満洲であれば、部隊についても調べ、司令官の回想録なども目を通すようにした。事実関係を確認した上で、再度の質問や疑問点があれば、それは「追い質問」という形で次回に問い合わせることとした。

 不明瞭な点や説明が変化した点は、必ず確認した。これは、実際のところ、「他人」では難しいだろう。想像してほしいが、自分が戦争経験者にインタビューする機会を頂いたとして、「あなたの言っていることには矛盾がある。事実確認をしたら、そうではなかった」などとは軽々には言えないだろう。しかし、祖父との関係において私には、この点には調査者としてのアドバンテージがあった。「ジイジ、前言っていたことさ、ちょっと分からない部分があってね、***について何だけどさ」という具合で、繰り返し質問をした。祖父と私の人間関係、そして、彼の孫の私がたまたま研究者であったということで、我々の間の繰り返しの問答やその記録の確認は成立したと言える。
 祖父とのインタビューは、1~2時間の録音記録を合計10回以上録った。既述のように聴取内容を文字起こしした上で既存研究や資料に基づく事実検証を行った結果、祖父の言っていることが正しく、むしろ私の知識や理解の欠如、あるいは早とちりで誤解していたり、私によって補われた説明が間違っていたりしたことに気づくこともあった。この点は、むしろ研究者としての無意識のバイアスが私にはあるのではないかと、自分自身の解釈や理解の問題点を認識する良い機会にもなった。

 私が祖父のオーラル・ヒストリー聴取を通して何を明らかにしたのかについては、拙著(富樫 2018, 2019, 2020)を見て頂きたいが、私なりのアプローチを図式化したのが、下図のような形になる。つまり、個人の視点から戦争経験を記録し、語ろうとする以上、観察者、記録者である我々が取り組まないことは多数あるのである。これらの関係性を理解せずに、一面的に調査や記録を残していないか、またそれによって、ある側面を単純化していないだろうかと、我々は自分の胸に手を当てる必要がある。常に自身を疑う姿勢が我々には求められるのである。

 現在、歴史の政治利用や切り取りがSNSでは盛んに行われ、人々の感情を揺さぶる手段として利用される機会も増えている。たった一人の一般化できないかもしれないことを、観察者が都合よく切り取り、自身の主張を内在化させ、その正当性を主張するために拡散する。いわば、「神話化される歴史」が日々SNS上で制作されているわけである。

 こうした事態に、一人の学徒として学び舎にいる我々は、感情論を無視した徹底的な調査と、客観性および中立性を備えた分析をすることで、静かに務めを果たす必要があるのではないかと思う。「あの時代」を経験し、あるいは記録した人々と真摯に向き合おうとすれば、そこには仰々しい言葉も、感傷的な音楽も、勇ましさや尊さを雄弁に語るような脚色はいらない。オーラル・ヒストリーや個人史を「神話化される歴史」、つまりチープで安い作り物にされてしまわないように、我々は果たすべき役割がある。それを本書の読者、あるいは本誌の著者らにも一緒に考えてほしい。これは、私にもずっと突きつけられている問題であるからである。

参考文献

アレクシエーヴィチ, スヴェトラーナ(2016a)『戦争は女の顔をしていない』三浦みどり訳、岩波現代文庫

──(2016b)『ボタン穴から見た戦争――白ロシアの子供たちの証言』三浦みどり訳、岩波現代文庫

──(2022)『亜鉛の少年たち アフガン帰還兵の証言 増補版』奈倉有里(訳)岩波書店

小熊英二(2015)『生きて帰ってきた男―ある日本兵の戦争と戦後』岩波新書

おざわ ゆき(2012)『凍りの掌』小池書院

久保田桂子(2017)『記憶の中のシベリア』東洋書店新社

佳院会(佳木斯第一陸軍病院友の会)(1977)『行雲流水』本山印刷所

富樫耕介(2019)「「記憶」を「記録」する : あるシベリア抑留経験者のオーラル・ヒストリー (1) -出生から徴兵まで-」『東海大学紀要教養学部』 (49), 269-285

──(2020)「「記憶」を「記録」する : あるシベリア抑留経験者のオーラル・ヒストリー (2) : 満洲における兵役」『東海大学紀要教養学部』 (50), 213-231

──(2021) 「「記憶」を「記録」する : あるシベリア抑留経験者のオーラル・ヒストリー (3) : 満洲における兵役」『同志社政策科学研究』(22)2, 143-157

本山新一(1991)『70年の歩み』プリントハウス本山

本山新一(1998)『激動の昭和を生き抜いて』プリントハウス本山

平和祈念展示資料館館長・立正大学名誉教授 増田 弘

1.これまでの歩み

私が学者になったのは偶然でした。本来学者は私の将来設計図の中にはありませんでした。ですから大学院進学は恩師の助言に従っただけでした。その直後、母校の図書館で『石橋湛山全集』第一巻を手にしたことが、今思えば私の人生の転機となりました。のち自民党総裁・内閣総理大臣となる人物が、大正デモクラシー期に第一次世界大戦参戦反対、対中国21カ条要求反対、満州・朝鮮など植民地放棄等の反帝国主義論、“小日本主義”を唱えていたことに驚き、修士論文を執筆したことが学者の道を導いたといえます。

しかし完全な偶然性はなく、一定程度は必然性が占めています。私は高校生の頃から、「一体なぜ日本はあのような“愚かな”太平洋戦争を始めたのか」という疑問がありました。その答えを模索する中で石橋湛山に出会い、近代日本には別の可能性や方途があり得たことを発見したのです。この「なぜ?」という素朴な疑問が無ければ、恐らく湛山との出会いもなく、したがって研究者への道も開けて来なかったように感じます。

2.平和祈念展示資料館活動について

私の専門分野は近現代の日本外交史です。とくに日中・日米関係に関する著作を重ねています。ある日突然政府(総務省)から声がかかり、独立行政法人「平和祈念事業特別資金」監事を経て理事長に就任しました。47歳でした。⑴シベリア抑留者、⑵旧満州・朝鮮からの引揚者、⑶赤紙で召集され死線を彷徨って復員した兵士の問題が社会問題となっており、400億円の基金で関係者に対して慰藉事業を行うのが目的でした。本来トップの理事長は官僚でしたが、行政のシロウトである学識者の私に白羽の矢が立ったのです。

多くの日本人は、1945(昭和20)年のポツダム宣言受諾・天皇の玉音放送・ミズーリ号上での降伏調印式をもって「太平洋戦争は終了した」と思っています。しかしそれは誤りです。外地にいた約650万人もの軍人や民間人たちは、以後に“第二の戦争”を迎えるのです。60万人がシベリアやモンゴルへ送られ、ラーゲリで飢えと寒さと重労働に苦しみます。旧満州や朝鮮にいた200万人は祖国を目指しますが、暴行・略奪を伴う死の行進でした。南方でも120万以上が、英米蘭豪など連合国側から奴隷のような無賃労働を強いられるのです。これらの事実はあまり知られていません。

私は多くの体験者や帰還者と直接会い、極限状態の心情に触れるうちに、学問の無力さを実感しました。戦後史にポッカリと大きな穴が空いていると痛感しました。そこで、この空白を埋めるわが資料館の果たす役割は大きいと考えるようになりました。基金の付属機関として2000(平成12)年11月にオープンした平和祈念展示資料館(愛称「帰還者たちの記憶ミュージアム」)は、今年四半世紀を迎えます。上記の方々の労苦を広く国民に理解していただくとの目的で日々活動しています。通常展示のほか、企画展と地方展を毎年実施していますが、とくにマンネリ化を防ぐため、定期的な更新を心掛けています。最近は外国人が急増しており、展示の国際化は急務となっています。

われわれ資料館には、歴史の生き証人である“語り部”が不可欠です。目下、20名弱の語り部さんが活躍中です。最高齢100歳、平均80代後半という高齢者ばかりですが、皆さん一様に、若い方々へ戦争の悲惨さを直接伝えねばならない、という使命感と熱情を以って、資料館活動を盛り上げてくれています。ただし将来の“証言者ゼロ時代”にどう対処するか、全国各地の同類の資料館はこの深刻な悩みを抱えています。

3.次世代へのメッセージ

数年前に全国の高校で「歴史総合」科目がスタートしました。「日本史」と「世界史」を合体し、昭和の戦争や戦後など近現代史まで扱う画期的指針です。正当な教育方針でしたが、案の定、現場の先生方の間で混乱が広がりました。歴史解釈、とくに戦争解釈は大変難しいからです。人の価値観は多様であり、人文科学は理数科学と違って答えは一つとは限りません。われわれ資料館が心掛けていることは、事実を正確に伝えること、そして中高大の諸先生方や学生の皆様に寄り添い、その歴史教育のお手伝いをすることです。

ただし、ある政治目的や先入観から歴史の逆算を試みることは絶対あってはなりません。現在から過去を推断するのも危険です。現在と過去が“対話”し、“歴史の教訓”を将来に活かす知恵と工夫が必要なのです。人類は紆余曲折を経て現在の平和を創出したのです。

中高生3千名のNHK調査結果では、皆先の戦争に深い関心があり、「二度と戦争を起こしてはならない」との見解で一致しますが、「侵略戦争であったか否か」は不明5割、是3割、非2割を分かれます。また戦争がアジア独立に貢献しなかったが、日本だけ反省する必要はない、欧米諸国にも責任があるとの見解が4割、そして将来日本が戦争に巻き込まれる可能性、侵略される可能性は8割を占めています。Z世代の現状認識の推移に注目したいと思います。

平和の愛し方、戦争の憎み方
同志社大学政策学部教授 吉田 徹

ヒットした映画『この世界の片隅に』(片淵須直監督、2016年)は、戦争のリアリティをこれまでとは違った形で描いた良作だ。物語は、広島の呉を舞台に、主人公すずの日常生活を中心に、原爆投下を含む、終戦までの道のりを描くものだ。

秀逸に思えたのは、終盤に終戦を迎えて各宅で料理のための火が炊かれ、街に明かりが灯されるシーンが挿入されていたことだった。日常生活を取り戻すことが平和──今日は昨日の、明日は今日の延長線上にあるということ──の象徴とされているのである。

そのように感じたのも、私の祖母の経験を常々聴かされたからだ。九九歳という長寿を全うした祖母・敏子は、皮肉を言われても気が付かないほどの温厚な性格の持ち主だったが、認知症になるまで(昔はボケる、と表現したものだが)、事あるごとに自身の戦争体験を口にしていた。疎開先の親族の家庭でいじめられたこと、物資提供(「金属回収令」)で婚約指輪まで拠出してしまったこと、戦後になってお手伝いさんがいなくなってしまったこと等々。恨み節では決してなかったが、銃後にあっても、戦争という経験がいかに人に大きな痕跡を残すのかを幼心に感じたものだ。

『この世界の片隅に』のシーンに言及したのは、そんな祖母の経験と合致するものだったからだ。「戦争が終わってどう思ったの?」と尋ねる私に対して彼女は、戦争が終わって一番ほっとしたのは、灯火管制が解けて、赤痢にかかっていた、後に私の母となる娘の看病がようやくできるようになったことだ、と答えたのだった。終戦の記憶を彩ったのは、いつ死ぬか分からないという恐怖から解放されたり、ましてや玉音放送が流されたりしたことではない。それは、今、目の前にいる家族の面倒を、ようやく心置きなくできる、という生活者の感覚の上に置かれたものであったりするのだ。

 太平洋戦争で兵士として動員されたのは最大で約七〇〇万人、つまり残る多くの日本人は日常生活の中で戦争を感じ、体験し、生き抜いたということになる。非日常──戦争──の中でも、あるいはだからこそ、人々は普通に暮らそうとする存在であることは、証言や民俗的資料からも裏付けられることであり、紛争地や難民キャンプで私が目撃してきたこととも符合する。もし、戦後八〇年に戦争のリアルさを感じられる数少ない方法があるとすれば、そんな人々の日常を自分の日常を重ね合わせることではないか。戦争には悲惨さが付きまとうが、悲惨とは何よりも人から当たり前のものを奪い、無力な存在へと化してしまうことを意味する。

 祖母がなくなり、幾何かの遺産を頂くために戸籍抄本を取り寄せる過程で、発見したことがあった。それは戦争中に彼女は二人の幼子を失くした経験をしていたという事実である。何も隠さず戦争について語っていた敏子だが、最近名前を知った二人の赤子(生き抜いていれば私の叔父母ということになる)を失ったとの経験を私は耳にしたことはなく、だから、どのような経緯でそうなったのか、彼女がその事実をどう受け止めたのかもわからない。終始穏やかで素直な性格の持ち主だった祖母でも、口にすることができなかった、もうひとつの戦争体験だったのだろうか。私は、その時の彼女の感情を想像し、その悔しさに想いを馳せることができるからこそ、戦争を憎むことができるのである。