【個人論文A】戦時下の怪談 ―日露戦争期と太平洋戦争期の変遷を通して― 

文学部国文学科  荻原 妃渚 

はじめに 

 歴史美術研究会に所属していると、会員との会話の中でしばしば驚かされることがある。曾祖父がどこの部隊に所属し戦争に参加していたという記録が家に残っているとか、自身の姓の由来からその支流を特定しているといった話が多く聞かれる。さすが歴史好きの集まるサークルであると実感する。 

 今年、戦後八十年企画として論集作成の企画が持ち上がった際、私も執筆内容を検討したが、他の会員のように先祖の記録がないかを探してみても、残念ながら見つけることはできなかった。ただし、口伝えで伝えられてきた話はいくつかあり、それらを記録として残しておきたい。 

 父方の曾祖父は二度ビルマへ派遣され、インパールにも赴いたという。その際の出来事を何かに記録していたようだが、復員の際、アメリカ軍に取り上げられてしまったそうだ。終戦後は靖國神社や九段会館に赴くこともあった。母によれば、戦時中の話をよくしており、誰がいつ、どこで亡くなったかを明確に記憶していたそうである。 

 対して、母方の曾祖父は身長が規定に達せず出征できなかった。そこで、背の高い男の子を残したいと、背が高く「大女」とからかわれていた曾祖母と結婚をした。曾祖母は男子を二人(私の祖父とその弟)をもうけ、望んだとおり、二人とも当時にしては高身長に成長した。 

 両家の曾祖父はすでに他界しており、母方の曾祖父は直接会うこともなかったが、口伝えであったがそれらの話を聞くことができた。ただし、先述したように、文字や映像といった資料は一つも残っていない。そこで本論では、私自身の研究テーマである「怪異」という観点から、戦時下における怪談がどのように扱われていたのか、また私たちはどのように捉えるべきかを考えていきたい。 

第一章 怪異の歴史 

 まず、「妖怪」や「化物」といった怪異の歴史について簡単に述べておきたい。古代から中世にかけての展開は本論では割愛するが、現在にまで続く「妖怪」「怪異」のイメージを定着させたのは近世のことであることを明記しておきたい。それまで、文字でしか表されていなかった「妖怪」「怪異」は姿形を持ち、名前までも持つようになった。 

近世の怪談について研究している近藤瑞木氏は、著書『江戸の怪談 近世怪異文芸考』において次のように述べている。 

   近世は、限られた範囲で継承されてきた知識や情報が、出版文化によって公に普及していく時代である。写本で伝えられてきた古典テキストの板本化が進み、学問・芸道などで秘伝・秘話として扱われてきた内容までもが、時には刊行されて巷間に出回るようになった。絵画の世界では画譜・絵手本類の刊行も盛んになり、その編者として知られる橘守国には、狩野派の粉本を公判したせいで師家と絶交した(または絶交したので、手本類の公刊に踏み切った)との説も伝わる。1 

近藤氏の言うように、近世において「妖怪」や「怪異」は出版文化を通じて一般に広まり、娯楽として楽しまれるようになった。しかし、江戸幕府の終焉とともに明治時代へ移ると、政府はそれらを「迷信」として排除しようとした。にもかかわらず、民衆の間では心霊ブームや怪談ブームが起こり続けたのである。次章では、日露戦争期を中心に、明治期の怪談がどのような役割を果たしていたのかを考察する。 

第二章 明治期の怪談 

 辻本慶樹氏の論文「日露戦争期の妖怪・怪異―『奇跡』『瑞祥』の役割―」を参照し、明治期の戦争下で怪談がどのような役割を果たしていたのかを見ていきたい。第一章で述べたように、明治期には政府の統制にもかかわらず、民衆の間で怪談ブームが起こっており、不可思議な現象を楽しみ、信じる風潮があった。 

 この時代における有名な「妖怪」「怪異」の例としては、「軍隊狸」が挙げられることが多くある。複数の記述が残されており、いずれも狸が兵隊に化けて日露戦争に参加したという筋のものである。同じように、辻本氏が日露戦争期に語られていた「妖怪」「怪異」を湯本豪一編『明治期怪異妖怪記事集成』を用いて分析した結果によると、怪異に関する記事件数は以下の通りである。  

  明治三六年:一七八件 

  明治三七年:七六件 

  明治三八年:一〇九件 

  明治三九年:一六一件2 

このうち、日露戦争とセットで語られている記事は二十四件にすぎず、その大半が戦争に協力的な内容の「奇跡」「瑞祥」であったという。辻本氏は次のように述べている。 

  妖怪や怪異・迷信といった不可思議な現象は、前近代の不要なものであり、近代化の邪魔をするものであったが、「神話」という神霊性のあるものと結びつくことによって、前近代の不可思議な現象存在は「神話」が持つ神霊性に取り込まれ、「奇跡」「瑞祥」という形へ姿を変える。日本神話は神道と深く関係しており、「神話」と結びついた妖怪・怪異は神霊性を持つことで間接的に神道とも関係を持つこととなる。そうなってしまえば、国家神道を掲げる政府側としては排除するわけにもいかないはずである。そのため、「奇跡」「瑞祥」といった形の妖怪・怪異現象を政府は排除しなかったのではないだろうか。3 

すなわち、政府は「妖怪」「怪異」を迷信として否定しつつも、戦争を鼓舞するために「神話」と結びつけた怪談を容認したと考えられる。近代化の過程においても、怪談は形を変えつつ社会の中に生き残り続けたのである。 

第三章 太平洋戦争時の怪談 

 明治・大正を経て昭和期に入り、太平洋戦争が勃発した。この時代の戦時下における庶民の生活と怪談の関係について、今井秀和氏の論文「戦時下の世間話——怪談より怖い“笑い話”が持つ意味——」を参照して考察する。 

 昭和期においても、明治期と同様に怪談は表立って語るべき事柄ではなかった。軍・官・民は足並みをそろえておく必要があったからである。今井氏は永井荷風の日記『断腸亭日乗』から芝居の禁令を巡る噂を次のように引用している。 

  噂によれば化物の見世物怪談および猫騒動の芝居等禁止せられし由。 

(昭和十七年九月二十日) 

   

  新舞踊土端の雨とやら題するもの累の殺しなり上場禁止となりしと云。歌舞伎座にて真景累ヶ淵も過日禁止となりしが其理由は人の殺されて後化けて出るは迷信にて、国策に反するものと言ふに在る由なり。 

(昭和十八年六月二十五日)4 

荷風の日記からは、化物や怪談を題材とした芝居が禁止されていたという噂が出回っていたとの記事や、代表的な女の怨霊累ヶ淵の「累」ものが禁止されたという噂が記録されている。明治期と同様に、民衆の間では怪談が人気を博しつつも、国家による統制の下に置かれていたことが分かる。 

 太平洋戦争期に一貫して本土で生活を送っていた知識人として、永井荷風の他に山田風太郎も挙げられている。この二人の日記には、個人的な記録のみならず、当時の「戦時下の噂話」が多数記されている。そこには、戦況に関する現実的な噂とともに、猫のたたりや人形のたたりといった怪談めいた噂も含まれていたという。 

今井氏は、中国での戦争に関する次のような噂話を紹介している。日本人兵士数人が中国のとある医師の家に乱入し、一家全員を井戸に投げ込んで殺した。後に兵士の一人が帰国後、自身の留守中に強盗が入り、妻と母が暴力を受けたことを知り、発狂して精神病院に送られたというものである。今井氏はこれを次のように分析している。 

  すなわち、兵士の発狂の背景には、井戸に落とされた女の怨霊の発現という古典的、前近代的な文脈が控えてるのである。 

   この噂話には、日中戦争当時、そして太平洋戦争開戦前夜における“戦場生活と復員後の生活の倫理観の落差”という同時代的な社会状況を踏まえて読み解くべき〈奇談〉の要素と、通時的な視点で読み解くべき〈怪談〉の要素が混在している。5 

また今井氏は、戦時下の「妖怪」「怪異」を考えるうえで、対照的な場所に位置して 

いる資料として着目すべきは「笑話」であると指摘している。こちらも山田風太郎の例が挙げ 

られている。 

  或る母親が背にカボチャのカゴを背負い、その上に赤ん坊をのせて、あかん坊のきものの裾でカボチャをかくして汽車にのったところが、汽車がゆれたはずみにあかん坊がおちて死んでしまったそうである。母親はもう一生カボチャを食べる気になれないと泣いているそうである。 

   (中略) 

   すなわち、この噂話が語られている場では、赤子が死んだという一応の「事実」も基づく情報(ただし遡求不可能な情報)が共有され、なおかつ笑いの対象になっているのである。これは一見、不可思議な現象であるが、実際、戦時下には、見知らぬ人々のむごい死に方が笑いの対象にもなっていたのである。6 

 このように、現実の死が笑いに転化する瞬間があった。今井氏は「死に対する忌避の感覚が麻痺してしまった人々は、ときに笑話の着火装置としても機能させていた」7と述べている。つまり、戦時下の庶民は、恐怖や悲惨を「笑い」へと変換することで日常を保とうとしていたのである。 

一方で、戦場に赴いた兵士たちの間にも怪談は存在した。山田盟子氏が取材をして記録した『幻影の碑 戦争と怪談——兵士たちの証言』によれば、死にざまを馬鹿にされた兵士の霊が出るという話、戦死時刻に父母の枕元に兵士が立ったという話、死を予感した者の話、兵士を通じて伝わった海外の妖怪の話、戦死者の心霊写真が撮れたという話、キリスト教に結び付けた吉兆があったという話など、内容は多岐に渡っている。 

 特に印象的なのは、「白骨街道」にまつわる話である。山田氏がタイのランプン県コンチュディ村に住む元兵士・藤田松吉氏を訪ねて聞き取った証言によると、村はチェンマイから南東に五十キロほどに位置し、ビルマへの敗走路となった「白骨街道」にも通じていた。藤田氏は、シンガポール攻略戦に参加し、ビルマ、サガイン、マンダレー、カーサと進撃、そして北部のフーコン戦線にまわされたという。フーコン出動は昭和十八(一九四三)年十月十八日からであったが、インパール作戦の頃には第一線が崩壊していたという。食糧不足により、飢えで死ぬ兵士が続出した。藤田氏は次のように語っている。 

  「退却となると、倒れた者は置きざりになる。みんなが病人やケガ人だから、助ける者はおらん。雨期で毎日スコールだった。タイのチェンマイを目指したが、フーコンからカーサ、マンダレーをぬけて、タイのメーホンソンまで、いくつかの山を越え、いくつかの川を首までつかって渡った。 

   ジャングルには、病と飢えで倒れた者、手投げ弾での自爆者も多く見られた。死体は腐って白骨になった。白骨街道とはよく言ったもんだよ」8 

この証言から、戦場の怪談は市井の噂話とは異なり、死の現場を直接経験した兵士による具体的な語りであることが分かる。彼らにとって怪談は、無念の死や極限状態の記憶そのものであり、「怪異」というよりは「幽霊」として現れるものだった。。 

 市井の人々は、死に対する忌避の感覚の麻痺から、匿名的な死や創作的な話を「笑話」に昇華させた。対して、戦場に身を置いた人々の怪談は、実名や地名を伴う生々しい記録であり、亡魂への鎮魂を含む語りであった。 

おわりに 

 以上、明治期から昭和期にかけて、戦時下における怪談の変遷をみてきた。明治期には民衆の怪談ブームと政府の統制が対立したが、「神話」との結びつきによって戦争を鼓舞する装置として利用されるようになった。一方、昭和期の太平洋戦争期には、市井の人々の語る「怪談」と戦場に赴いた兵士の「怪談」の間で明確な差異が生じた。 

市井の怪談は、死や恐怖を「笑話」へと転化し、人々を精神的に支える役割を果たしていたともいえる。対して、兵士たちの怪談は、無念の死を背景に持ち、戦争の現実を生々しく伝える「幽霊譚」として語り継がれている。 

 これらの変遷を通じて私は、娯楽や戦意高揚のために用いられた怪談と戦争の記録としての生々しい幽霊話は区別するべきであると考える。山田氏の取材に応じた藤田松吉氏、そして西部ニューギニア西端に位置するソロン県の知事・ジョゥゴ・プリノモアディ氏の言葉は、その本質を示している。 

「このんで戦争を始めたのではない者が、戦争をさせられ、そのうえ死んでいった。英霊が泣き狂うのもあたり前じゃ。バンコクやチェンマイに、日本人は観光にやってくる。だが、だれ一人、この地にかつてあのとき果てた人に、想いをくれる人はおらん。お国のために働かせといて、守らぬのは無礼といえよう」9 

「ひとたび国に殉じた兵士は、立派な英雄なのです。英霊は丁重に弔わなければなりません。決して幽霊などというような……。彼らをこれ以上、地下で迷わせるようなことがあってはなりません。供養こそ大切なのです」10 

戦死した兵士の幽霊を恐れる、あるいは面白おかしく語るのではなく、英霊として敬い、供養する姿勢こそ、私たちが戦争に関する「怪談」に対して持つべき考えではないだろうか。 

拙稿ながら、本稿が現代に伝わる戦争の「怪談」を考える一助となれば幸いである。 

参考文献 

今井秀和「明治下の世間話——怪談より怖い“笑い話”が持つ意味——」『昭和のくらし研究』13巻、5~20頁、2015年。 

小山聡子『もののけの日本史』中央公論新社、2020年。 

近藤瑞木『江戸の怪談 近世怪異文芸考』文学通信、2024年。 

辻本慶樹「日露戦争期の妖怪・怪異―『奇跡』『瑞祥』の役割―」『奈良大学大学院研究年報』23号、39~49頁、2018年。 

山田盟子『幻影の碑 戦争と怪談——兵士たちの証言』光人社、1994年。 

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