【戦争体験記B】一女学生の戦争の記憶                                       豊田喜久子・1931(昭和6)年生まれ

文学部美学芸術学科 砥綿昂敬

まえがき

私の祖母である豊田喜久子は今年で御年九四歳になる。強気なことで評判だった祖母も足腰が弱くなってきており、老いを感じるときが多くなってきたが、戦争の頃の聞き取りを始めると、若さを取り戻したかのような生き生きとした目で話してくれた。本稿では、このような祖母の戦争体験記を述べていくこととする。

八幡時代

 十五年戦争が始まった昭和六年(一九三一年)に北九州市の八幡に生まれた喜久子は、物心が付いた頃には、戦争がもはや当たり前のものとして日常となっており、そこまで意識していなかったという。事実、日中戦争中に幼少期を過ごしているにもかかわらず、一番初めに思い出されたものが官営八幡製鉄所の課長であった叔父の家にカルピスを飲むために往復十粁の距離を弟妹を連れて歩いて行ったというものであった。このように戦争を意識していなかったのは、喜久子の父である辰一が、のちに船舶運営会[1]に所属した杤木汽船という海運会社に勤めており、配給制度による飢餓や貧困とは無縁だったからであろう。

宮崎時代

一九四二年、辰一は神戸か宮崎への異動を選ぶこととなり、子どもが多かったために田舎がよいということで宮崎の南郷へ家族とともに引っ越した。南郷では戦争景気のあおりを受けて父の生業が好調であり、さらに倉庫の積み荷の管理課長も担っていたため、おこぼれにあずかることができ、食には困ることはなかったという。

一九四三年、喜久子は宮崎県立飫肥高等女学校に入学した。しかし戦局の悪化とともに本土に空襲が行われるようになったことで、造船所や倉庫のある南郷から佐賀への疎開を決めたという。

一九四五年三月一八日に疎開先行きの汽車に乗ったときに外浦造船所が空襲で炎上し、辰一の職場である倉庫群は破壊されたが、彼は構うことなく「もう直らん」と言い、そのまま疎開したというから驚きである。

佐賀時代

佐賀に疎開したのち、同年七月ごろには汽車に乗り登校中に、グラマンによる機銃掃射を受けるも、防空壕に入り無事難を逃れたという。その時も特に怖くなく、帰りに知り合いの農家の方に梨をおすそ分けしてもらい、それを食べながら弟と線路沿いを歩いて帰ったという。その後辰一はこれを受けて、防空壕がない状況に危機感を覚え、防空壕を庭に造っていたが、その途中に終戦を迎えたという。

おわりに

以上、出兵していない一般人の視点の戦争体験記を述べてきたが、戦争が当たり前になった状況とそれに慣れた祖母の価値観を前に、幼いころに聞いたときにはわからなかった驚嘆と胸騒ぎを覚えた。現在の日本は軍靴の音が響いているという人もいるが、我々が気づかぬうちに戦争はすぐそばに来ているのかもしれない。

アイキャッチ写真:西日本新聞「戦争の記憶 Youtubeで継承 久留米市が空襲証言や機銃掃射映像公開」より


[1] 船舶運営会とは海運事業を統制するために、一九四二年から一九五〇年まで存在した国家総動員法一八条に基づく特別法人のこと。

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