【戦争体験記B】海軍兵学校を目指した祖父と「逆コース」堺 弘・1932(昭和7)年生

政策学部政策学科 堺 凌

はじめに

祖父は、私の人格形成に大きな影響を及ぼした一人である。幼いころから断片的に聞く戦争の話は、その曖昧さゆえに私の好奇心を掻き立て、歴史に興味を持つきっかけになった。また、同級生の祖父母が戦後世代であるのに対し、祖父が昭和一桁世代であることは私が「戦前・戦争」を意識する要因になった。私が高校・大学へと進むなかで世代交代が進み、戦争を知る世代は年々鬼籍に入っている[i]。二〇二五年現在、兵士として前線に行った方はごくわずかで、当時の葛藤や恐怖を人から感じる機会は格段に減っている。

本稿は、一九三二年生まれの、戦時下は海軍兵学校を志した祖父の「記憶」を「記録」したものである[ii]。従来の関連書籍や論文と比べて、本稿は二つの特異な点を持っていると考える。

第一に戦争を直接体験していない「軍国少年」の人生にフォーカスした点である。従来の聞き取りは戦争体験者や抑留者などが中心であり、銃後にいた子供は戦時下のある一時点で語られることが多かった。本稿では、子供がいかに軍国少年となり、なぜ兵士になることを渇望したか、また、受けた戦時教育がその後の価値観としてどのように表象し、戦後を生きたか克明に記述を行った。

第二に、聞き取り対象である祖父の父(私から見たら曽祖父)の人生を対比的に扱った点である。祖父を調べる過程で、軍人・警察官であった曽祖父の周辺に夭折が多いことに気がついた。祖父と曽祖父が生きた時代を比較することによって、明治から平成までの社会福祉の変遷や、農村部の中間層を中心にその生活史を描き出している。

前述のとおり、祖父は軍国少年として育ったが、同時に銃後の守りを期待された「少国民」でもあった。「少国民」とは、天皇陛下に仕える小さな皇国民という意味であり、当時の小学校に通う子供を指す言葉である[iii]。現在の人口ピラミットでは昭和一桁世代(一九二六年から一九三四年生まれ)がかつて「少国民」と呼ばれた。

昭和一桁世代で著名なのは黒柳徹子や石原慎太郎、「火垂るの墓」の著者・野坂昭如などである。野坂はこの昭和一桁世代にも二つ分けられるとし、一九二〇年代後半に生まれを「真っ只中の戦中派」、一九三〇年代前半生まれを自身の経験から「焼跡闇市派」と分類している[iv]。したがって、「少国民」の中でも生まれた若干の年数や育った環境で戦争の見え方は別々であるし、先述した三人ですら「あの戦争」に対する考えた方が異なっている。

この「昭和一桁世代」の中で、祖父の人生がどれほど普遍的か分からないが、おおよそ、小中学生の時に軍国教育を受けながら空襲の被害を目撃し、戦後の価値観に一応の適応を見せた点では普遍的と言える[v]。一方、大学まで進学している点や、革新に根強い支持があったのと対象に、朝日新聞や毎日新聞などのリベラル紙や、左派政党に対する評価が低い点は平均的な昭和一桁世代像と一致しないかもしれない。社会学者・小熊英二によれば「一生涯を通じて、すべての場面において「多数派」であるという人間はいない。(中略)生涯に一度も逸脱行動をしない人間がいたとしたら、それこそ「普通の人」ではないだろう。(中略)(対象の経験を)総合的に把握し、同時代の社会的文脈の中に位置づけてこそ、立体的な歴史叙述になりうるのではないか[vi]」と述べている。この指摘に倣い、聞き取り手である私が祖父の経験を総合的に吟味してフラットにし、社会的な文脈に位置づけることを試みている。

聞き取りにあたっては、以下の通り、計四度の聞き取り調査を実施した。一、二回目は夏休みを利用し祖父へ私が直接聞き取りを行った。あらかじめ祖父の人生を時系列にまとめ、これまでの先行研究で触れられていた点を質問するという形で一時間程度行った。秋学期開始後は大学がある京都と福岡で聞き取りが困難となったため、私が用意した質問を父から祖父へ代わりに聞いてもらうという形式で二度行った。また、父がよく祖父を訪ねるため、適宜私の疑問点を解消してもらうという形でブラッシュアップを行った。それでも不明確な点は私が祖父に直接電話をかけ、解消する形を取った。

本稿が、戦後八十年、「少国民」として幼少期を過ごした人の貴重な証言記録として、多くの方に読んでいただければ幸いである。

第一章 海軍兵学校を目指した幼少期、敗戦まで

堺弘は、一九三二(昭和七)年七月二三日、福岡県朝倉郡甘木町に父・朝吉と母・オサメの長男として生まれた。出生時の弘には二つ上の姉・富美恵がおり、二年後には妹の英子、四年後に弟の博民が生まれる。祖父は四兄妹の二番目であった。

堺家は、明治期まで福岡県三池郡四ケ村でミカンを栽培する小地主であった。四ケ村は筑後国と肥後国の境に位置し、険しい峠の麓にある一寒村であった。物資の運搬は専ら人と馬だけで、鉄道はなく、四方を山で隔てられていた[vii]。当時の堺家には父母に男子が四人居た。上から梅太郎、竹次郎、松次郎、そして一八九八(明治三三)年生まれの末っ子が弘の父・朝吉であった。

朝吉が六歳の頃、高齢の父・治平が病死した。幸いにも、義務教育の個人負担が廃止されていたため、近所の四箇尋常小学校に入学できた。同学年は一四八人。明治二十年ごろまで問題になっていた未就学児は明治三〇年に入ると激減したが、依然、中途退学が多く、突出して女子が多かった。在学中に子供を身籠り、退学するのである。この傾向は四ケ村だけでなく、三池郡全体でみられた。解決策として三池郡は各学校に「子守科」を設置し、女子は子守をしながらでも勉強が続けられるようになった。朝吉の代も初めは一四八人居たが、三八人しか卒業しなかった。前年度の明治三六年入学者を参考にすると、高等小学校進学者は同学年の二%程度しかいなかった[viii]

明治が終わる直前の一九一一(明治四四)年、一二個上の長男・梅太郎が四ケ村からほど近い山川村の女性・平野ムメと結婚し、堺家は福岡県三池郡四ケ村から福岡県山門郡山川村に移住した。一九一三(大正二)年、朝吉は高等小学校を卒業。しかし、同年に三男の兄・松次郎が二〇歳で病死、一九一七(大正六)年には母・モノも病死した。いずれも病院ではなく、山川村の自宅で息を引き取った。父母を失った朝吉は長男・梅太郎の養子となり育てられた。

一九一九(大正八)年、朝吉は満二〇歳に達し、海軍に徴兵され佐世保海兵団に入団した[ix]。上海に到着後、第一遣外艦隊の砲艦・鳥羽に乗り込み、揚子江で警備と邦人保護にあたっていた[x]。前年まで第一次世界大戦と、軍閥割拠の兆しが見られ、鳥羽は重慶や宣昌を中心に航路確保や治安維持を行っていた。朝吉が入隊した際も、同様の任務を行っていたとみられる。この時期になると五・四運動やロシア革命を背景とした労働争議が増加し、その対応に追われていた。また、この時期に野球が日本で定着し始め、海軍内でも野球チームがあったという。その中で朝吉は正捕手であった。一九二二(大正一一)年一二月一日、四年の徴兵を終える際に二年の延長を申し出て志願兵に転籍。一九二四(大正一三)年一二月一日、計六年の兵役を経て予備役となり、警察官として働き始めた。

一九二五(大正一四)年、朝吉は兄妻の妹・平野ハツエと結婚した。同年に長男が生まれ、正治と名付けた。朝吉とその兄弟は違ったが、父の代まで堺家の通字が「治」だったためである。しかし、正治は誕生から一カ月で夭折。翌年に生まれた娘・アツ子も夭折し、折り合いが悪くなって離婚した。長男・梅太郎も同じく子供が夭折してしまい、彼は養女を取っている。当時の乳児死亡率は一〇%前後で、夭折は珍しいことではなかった[xi]

弘の母・オサメ(旧姓:今村)は一九〇七(明治四〇)年、熊本県上益江郡に農家の五女として生まれた。姉妹の一人は満州・佳木斯(ジャムス:現・中国黒竜江省佳木斯市)に渡っていたという。朝吉とオサメは、二人が炭鉱を出入りしていた際に知り合い、一九三〇(昭和五)年に結婚した。

父・朝吉は警察官として福岡県朝倉郡の駐在所を転々とする形で勤務し、家族もそれに伴って転居を繰り返し生活していた。

【図1】父・朝吉の足取り。(福岡県統計課「福岡県管内図」(一九三〇年)より筆者作成)①福岡県三池郡四ヶ村②福岡県山門郡山川村③福岡県朝倉郡甘木町。②から③の間に徴兵で六年間海軍に勤務した。

【写真1】一九三三年甘木署比良松で撮影。父・朝吉と母・オサメ。下の子供は弘の姉・富美恵。

弘が小さいころ、母のオサメは体が弱かったため義兄・梅太郎の影響で奈良・東大寺に養生で何度か行っていた。また、家族で年に一度か二度、バスで繁華街・天神まで遊びに行くことがあり、エスカレーターを備えた百貨店・松屋の屋上遊園地で遊んでいた。

一九三九(昭和一四)年、弘は三奈木(みなぎ)尋常小学校に入校し、毎日欠かさず通った。休日には歩いてすぐの所にあった筑後川を対岸から対岸まで泳いでいたという。一九四〇年(昭和一五)年、二年生に上がると父・朝吉の駐在所が変わり、朝倉尋常小学校に転校。小学校だったからか、軍事教練をやった記憶はないという。また、この歳から水泳を始めた。学校にプールができたためである。このプールは福岡県で初めてのプールであり、朝倉村長の後藤均が水泳の振興に力を入れていた。後に、「水泳の朝倉」と言われるほど、水泳が郷土のスポーツになっていた[xii]

一九四一年(昭和一六)年、国民学校令により「尋常小学校」が「国民学校」に変わった。国民学校令の趣旨は「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為目的トス」である。これは、明治一九年以来の「小学校令」に記された「小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳及国民教育ノ基礎並其ノ生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」と比べると、学校教育における愛国心の教化と国民錬成の側面が強調されていた。また、従来の小学校令には見られなかった「皇国ノ道」という語が国民学校令の中で登場する。この「皇国ノ道」とは「教育勅語」における「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」、すなわち「天皇のために身を尽くすべき」という意味である。さらに、義務教育の年限も六年から八年に延長され、子どもは従来の「児童」「学童」ではなく天皇のために銃後を守る「少国民」として期待された。

しかし、弘はカリキュラムが変わった覚えはないという。しかし、休憩時間や放課後には戦争ごっこをして遊ぶようになった。父の関係で杷木(はき)にある久喜宮(くぐみや)国民学校に転校し、移動の多い幼少期を送った。

小学五年生になった一九四三(昭和一八)年、父の転勤に伴い、大福国民小学校に転校。弘の学校では毎日「若鷲の歌」を歌わされていた。「若鷲の歌」とは同年上映された「決戦の大空へ」の主題歌である。この映画は予科練に憧れた少年の成長を描き、公開されるとたちまち大ヒットした。

この時期から弘は海軍兵学校に入ることを考え出す。父・朝吉の強い勧めであった。また、視力が良くないと合格できないため、弘は夜に星を眺めていた。元々目が悪かったためで、星を見て視力を良くしようとした。また、クラスには陸軍士官学校を目指す友達がいた。弘は父からの「海軍兵学校に入れ」の言葉から、その友達と一緒に勉強をしていた。戦争一色で、親も子も一直線であった。しかし、その熱量とは裏腹に日本の戦局は厳しくなっていく。一〇月には一一個下の妹、エミ子が生まれたが、すぐに息を引き取ってしまった。

家にはラジオがあり、昭和一九年以降、ほぼ毎日「敵機来襲」の放送が流れていた。また、金属供出が全国各地で行われていたが、「金属供出はあったと思うが、子供だったからあまり覚えていない。でも、親戚が出征するというので熊本まで見送りに行った。田舎だったので食事に困ることはなかったし、父の仕事柄貰い物が多かった」と振り返る。この熊本への見送りは母と夜行列車で向かった。それほど遠くなかったので夜中に到着し、そのあと母方の従兄弟を連隊の正門で見送った。

また、六年生の頃、学校で航空機乗員養成所の募集があった。この航空機乗員養成所とは、逓信省が管轄し、民間パイロットの養成が目的で作られた学校であった。卒業後は陸海軍の予備士官になることができた。募集に来たのは八女にあった筑後地方航空機乗員養成所の者であった。

学校では、その人がやってきて、大きい木で出来た模型に乗って失神するとかしないとかの訓練をやった。しかし、海軍兵学校の憧れから航空機乗員養成所に入ることは無かった。父・朝吉も「飛行学生でも予科練でもなく、海軍兵学校に入りなさい」と言っていた。

【図2】弘が通った小学校・国民学校の推移。①三奈木尋常小学校②朝倉尋常小学校③久喜宮国民学校④大福国民学校(福岡県統計課「福岡県管内図」(一九四三年)より筆者作成。一九四四年のデータは存在しなかった)。

【写真2】当時の家族写真。右から父・朝吉で、下が弟の博民。中央に抱きかかえられているのが姉・富美恵で、椅子に腕をかけているのが弘。中央上と左上の人物は不明。

弘が中学校に上がる直前の一九四五(昭和二〇)年三月二七日、この日は終業式であった。大分県・国東半島から侵入したB-二九爆撃機一五〇機が九州北部に来襲し、その一部が陸軍大刀洗飛行場攻撃のため編隊から分岐した。陸軍大刀洗飛行場は「東洋一の航空基地」と呼ばれ、この飛行場から多くの特攻隊員が出撃していた。弘が居た朝倉からは西に五㎞ほどの場所にあった。午前一〇時から鳴り始めた警戒警報は、すぐに空襲警報に変わり、鳴り始めた頃にはB-二九が真上に居た。空襲が始まった時「ドカドカ」と地面が揺れた。この空襲で飛行場は全滅し、立石国民学校の生徒も爆撃に巻き込まれた。この立石国民学校も卒業式中だったが、生徒が走って近くの森に逃げ込んだ。しかし、爆弾がその逃げ込んだ森に落ち、三一人全員が亡くなった[xiii]。また、四日後にも空襲があり、二度の空襲で六〇〇~一〇〇〇名が死亡した。

一九四五年四月、弘は朝倉中学校に入学した。入ってから大刀洗空襲の援護整理で動員され、丈夫な机などを運び出していた。また、「大刀洗」の地名の由来となった菊池武光の銅像の近くでも作業をしていた。飛行場は壊滅状態で、爆撃機もほとんど無かったという。双発機がぽつんと一機残っていただけであった。

【写真3】大分・国東半島から侵入し、陸軍大刀洗飛行場に来襲するB-二九(大刀洗平和祈念館所蔵)

【写真4】爆撃を受ける陸軍大刀洗飛行場。(大刀洗平和祈念館所蔵)

敗戦も色濃くなり、六月十九日に福岡大空襲、七月十七日には大牟田市、八月十一日には久留米市も空襲を受け、福岡県の主要都市はほぼ全て空襲に晒された。久留米大空襲は朝倉からでも赤い光が見えたという。本来であれば久留米大空襲の前、八月九日、二発目の原子爆弾が小倉に投下されていた。

八月十五日、いよいよ敗戦を迎える。玉音放送が聞き取れなかったり、戦後に脚色されたりしたケースも多々あるが[xiv]、弘は父が駐在していた警察署で玉音放送を聞き、敗戦を知った。「なぜ八月一五日に学校が休みだったか覚えていないが、聞いた際に将来に対する不安を感じた。家族もそんな経験はしたことがないので呆然としていた」

第二章 逆コースに翻弄された青年期

戦後、福岡市まで出ると、旧博多駅だけを残してまっさらになっていた。同時期、博多港は引揚港のひとつに指定され、約一年五ヶ月にわたり、中国や朝鮮半島などから約一三九万人の日本人引き揚げ者を迎え入れ、また同時に、朝鮮半島や中国の人々など約五〇万人を祖国に送り出していた[xv]。当時を「戦争中の疎開よりも引揚で帰ってきた人の方が多かった」と振り返る。

戦争が終わり、海軍兵学校どころか海軍も無くなったので弘の勉強のやる気は無くなり、無力感に苛まれていた。煙草も吸うようになった。部活の水泳は続けていた。

また、父の警察も動きがあった。一九四六年から軍国主義的だとし、詰襟と、明治以来続いたサーベルが廃止された。また、一九四七(昭和二二)年、今まで内務省が管轄していた警察が、民主化の過程で自治体警察へと位置付けられた。人口五〇〇〇人以上の自治体が警察を設置することとなり、朝倉郡全域でも地方警察が発足した。威厳のある警察官から、「わたしたちの暮らしを守ってくれるお巡りさん」として親しまれるようになった。しかし、この国家警察と地方警察の二本立ては犯罪者の捜査や検挙の過程で両者の連絡が事務上支障をきたすようになり、財政的にも自治体の予算に大きなウェイトを占めるようになった。実際、甘木町(朝倉郡)の年予算二八%を圧迫していた[xvi]

また、この時期になると多くの引揚者や抑留者が帰国を果たし、農村部の人口が増えた。一方で都市部の人口比率は一九三五年の水準にまで減少した。全人口に占める市部人口の比率は一九三〇年に二四%、一九三五年に三三%、一九四〇年に三八%と急上昇したのち、一九四七年には再び三三%に低下した。この農村部における過剰労働人口と、この時期に生まれた団塊世代は一九五〇年代に都市部に流出し、高度経済成長の担い手となっていく[xvii]

この時期には浮浪児が社会問題化した。一九四七年時点で全国に約七〇〇〇人もいた。この浮浪児には戦争で親を亡くした者が多かったが、中には家出児童もいた。背景には戦争で兵士としてトラウマを負った父親たちによる家庭内暴力もあったとされる[xviii]

一方、公務員の父を持つ弘は比較的安定した暮らしを送り、同年には近くの浮羽高校に進学し、水泳部に所属した。学校教育法が施行され、分岐型の教育システムから単線的な教育制度の運用が始まった。所属していた水泳部に後藤暢(下の読み方は「とおる」。先述の村長・後藤均の息子であり、後にヘルシンキオリンピック競泳男子四位入賞)がおり、彼を明治大学が目をつけていた。大学は彼を引き抜くため、あらかじめ上の代を引き抜いておき、後藤が卒業した際に引き抜く予定であった。(しかし、後藤選手は日本大学に進学)また、高校時代に学校・人生の先輩、松岡健次郎と出会い、後に祖父が自営業で独立した際手助けをしてくれた。

一九五〇(昭和二五)年、弘は明治大学に推薦で入学し、学部学科は法学部法律学科。運動部は水泳部に引き続き所属した。当時の大学進学率は総数七.九%、男性が一三.一%、女性が二.四%であった[xix]。(一九五〇年の統計がなかったため一九五五年の統計を参照)。東京までは九州の大動脈だった国鉄鳥栖(とす)駅から夜行列車に乗り、二四時間かけて上京した。上京する際には合わせて食券を持って行った。お金があっても食券がないと食べ物に困ったためだ。米も併せて持参したという。下宿先は大学寮があった世田谷区二子玉川で、大学までは玉川電車を利用していた。朝倉から東京に出てきた際はその都会ぶりに驚き、ラーメンや餃子、オムライスを人生で初めて食べた。また、街には傷痍軍人の姿もあった。「傷衣姿を見ることは多かった。昭和二五年ごろまで見かけた」という。同年六月二五日、朝鮮戦争が勃発し、翌年、警察予備隊が発足した。

【写真5】一九五三(昭和二八)年の明治大学・駿河台キャンパス。(明治大学図書館所蔵資料)

大学二年生に上がると、食べ物に困ることが減ったという。実際、米国からのガリオア物資、ララ物資などをはじめとする輸入食料や、一九四八年のコメの豊作によって食糧不足は次第に改善していった。また、一九五〇年代後半から食生活の洋風化も本格的に進んだ。日本で食生活の洋風化が加速した背景には、経済成長による所得増加に加え、米国の余剰農産物(小麦)の受け入れ、国の栄養教育の存在があった[xx]

大学では学生運動が盛り上がっていた。学生運動に対して、「スポーツ主体の生活で、ノンポリでもあったし、関わる機会はなかった」という。

この時期の明治大学の学生運動は何を目的にしていたのだろうか。一九五一(昭和二六)年一〇月二六、二七日に明治大学で行われた全国主要自治会代表者会議を見てみよう。この会議では自治・民主化の強化が共通目的として語られたのち、全国学生を代表して以下の七つを要求した。㊀文教予算の増額㊁学生生活の向上㊂学問の自由。具体的には自治への介入反対や、中には朝鮮人学生の強制送還反対、戦犯教授の復職反対もある。㊃CIE  (民間情報教育局のこと。一九四五年に日本と朝鮮に広報や教育、宗教に関する政策について、最高司令官に助言するために米太平洋陸軍総司令部の専門部として設置されたもの[xxi])反対㊄再軍備反対・徴兵拒否㊅単独講和破棄・全面講和㊆五大国の平和条約締結である[xxii]

弘が大学に通うなか、父・朝吉は交通事故に遭い左耳を失った。というのも、当時は飲酒運転など当たり前で、朝吉も勤務中、一升瓶を抱えながら警察のサイドカーに乗っていた。しかし、バイクが事故に遭い激しく転倒、一升瓶も巻き込んでか左耳を失った。その後、耳を覆う布をつけて生活をするようになった。同時期に歳で警察官を退職し、その退職金で福岡県大牟田市の一等地に住むようになった。しかし、その家は訳ありで、兄・梅太郎の婿養子・開造(かんぞう)が金融業で取り上げた家を叔父の朝吉に売ったわけである。その家には開造とその息子・隆幸が住んでおり、奇妙な同居生活をしていたそうだ。そこで祖父の妹・英子は美容室をしていたが、程なくその家も売り、晩年まで下関の対岸にある門司(もじ)に居を構えた。警察官の同窓会的なものである警友会とも関わりがあったようだ。

弘が大学を卒業するころ、父の勧めで警察官を目指していた。警察予備隊から発展した保安隊、のちの自衛隊に入るほどの気力は無かったという。警察を目指したのはこの時期の就職難と、父自身も警察官だっためである。学科試験は難しくなかったが、別にあった知能テストが難しかったという。志望動機も厳しく質問され、専ら思想的な面がみられていると感じたそうだ。合宿もあって、「お前、悪いことしたのか」と何度も言われ当惑したという。

その後、試験に通過し、制服が届いた。しかし、後日不合格を言い渡された。それは母方の従兄弟が福岡大学で全学連の委員をやっていたためで、身内に共産主義者がいるといけないという理由だった。建前上、身体検査で不合格ということだった。自分以上に父・朝吉の落胆が大きかったという。逆コースの真っただ中で、審査基準は厳しくなっていた。

その後、映画需要が高まっていた時期だったため新東宝(七年で倒産)、九州東宝で二年、メトロ(外資系)に契約社員として入るも倒産。新外映(フランスの会社)に一年と転々とすることになった。一九五〇年代にピークを迎えた映画界も一九六〇年代になるとテレビの普及に押され、次第に需要減となり倒産が相次いだ。

出典:vod流儀「映画館の推移、スクリーン数や入場者数、都道府県別」

https://vodriver.com/column/movie-theater/

同時期、日本全国で安保闘争が盛り上がっていた。当時の岸政権が日米安全保障条約を改定し、国会を連日、学生運動の渦が取り囲んでいた。そんな中、女性が死亡し、全国的に有名なニュースとなった。弘は「ニュースを見て過激運動の末路と思った。ノンポリの域を出ず」と振り返る。選挙では保守政党に決まって入れていた。

また、働いていた映画会社が佐賀県鳥栖市にあり、私の祖母である高島洋子と出会う。洋子はこのころ、高校を出て鳥栖駅前の喫茶店で働いていたが、近くに綺麗な喫茶店が出来たため、代わりに近くのうどん屋で働いていた。このうどん屋に出入りしていたのが祖父という訳である。

一九六一(昭和三六)年三月一四日、高島洋子と結婚した。六月には鳥栖で長女・千恵が生まれた。新婚旅行には朝倉の原鶴温泉と映画館主の招待で大分県・日田に行った。三年後に長男・健(たけし)、その二年後に久恵が生まれた。三人の兄妹は夭折することなく順調に成長した。実際、明治・大正まで高かった乳児死亡率は上下水道の整備や栄養状態の改善で昭和四〇年代には激減した。

【表】一九〇〇年~二〇二一年までの乳児死亡率の推移。厚生労働省「人口動態調査 人口動態統計 確定数 乳児死亡」より筆者作成。

(三年ごとに年数(横軸)を記載。一九四四年、四五年は戦災でデータが散逸)。

その後も三菱系の会社に四年、母方の金融業会社に一年勤めた。転々としたのは生活のためであった。この三菱系の会社の社宅が福岡城の向かいに位置し、公団住宅初期の団地・下の橋住宅でそこに四〇年以上住むことになる。

第三章 高度経済成長、バブル、そして現在

母方の金融会社に勤めたのち、不動産を中心とした自営業を始め独立した。事務所も借り、名義は高校・大学の先輩である松岡健次郎にした。その折、松岡氏が出入りしていた宗教法人・光薫寺(福岡市博多区)の住職・小林日進上人が持っていた賃貸アパートの管理業務を任された。

五年経った一九七二(昭和四七)年、父・朝吉が福岡市の病院で息を引き取った。七五歳で病死であった。その際、堺本家とも縁が遠くなっていたため、浄土宗から本門佛立宗に宗旨替えした。親戚からの反発があり、梅太郎の婿養子・開造と母方の今村本家から縁を切られた。

一方、事業の方は比較的順調に進み、母のオサメを韓国に連れて行った。これは本門佛立宗の檀家参詣であった。また、この時期に香港や台湾にも旅行に行き「親日家の多い場所に行った」という。この時期の香港は中ソ対立からアメリカとの取引が増えていた[xxiii]。米中接近の時代であった。

一九八二(昭和五七)年、母のオサメが七五歳で亡くなった。弘は「旅行も連れて行って一応の親孝行ができたと思う」と振り返る。一九七〇~一九八〇年代は安定成長を続け、安定した暮らしであった。煙草は五〇歳の時にきっぱりやめた。八〇年後半に入るとバブル景気がやってきた。世間では空前のどんちゃん騒ぎだったが、弘はバブル崩壊に伴って事業に失敗し、経済的な落ち込みを経験した。自分にとって戦争と同じくらいの影響があったという。また、六〇歳の時には胃がんになり、大部分を摘出することになったが九死に一生を得た。

妻の洋子は、毎年筥崎宮(福岡市東区)で行われる放生会に生け花(池坊)を出していた。また光薫寺の壇家旅行で韓国(ソウル)や、娘の千恵と一緒に欧州にも出かけた。また、一九九六(平成八)年には初孫・隼汰が生まれ、翌年には弟の挙吾が生まれた。

【写真】ありし日の朝鮮総督府。一九九四年八月二〇日撮影。この翌年解体が決まる。

【写真】イギリスビックベンを背景に写る妻・洋子。一九九六年一〇月八日撮影。

自営業も引退し、年金暮らしとなったが、生活は厳しくなった。弘には国民年金しかなかったためである。会社員が該当する第二号でもないし、妻の洋子も働きに行ける年齢ではなく、年金と貯金で生活を凌いだ。

四〇年以上住んだ下の橋住宅も老朽化で取り壊しが決まった。弟・博民の奥さんが住んでいた荒江団地に一緒に移ることになった。内装はリフォームされ、部屋の雰囲気は明るくなった。

そして現在、正月に洋子の実家・高島家で親戚が集まっている。かつては子供でごった返していた家も今では私と妹の孫二人と、姪の子が東京からわざわざ来るだけになった。親戚で集まるという風習も今や廃れている。弘は帰りに「今頃これだけ集まるところも珍しい。助け合いの精神だな」と漏らした。夕日が車内に差し込んで、杖を持っている手がいつもより繊細に見えた。家に着くと、私がその日渡した軍艦・鳥羽の写真を仏壇に添え、手を合わせた。いつもより穏やかな日であった。

おわりに

昭和世代は、そろそろ退場の季節にはいったのだ。

この一文は、作家・五木寛之「昭和の夢は夜開く」の末尾に記された一文である。ここでいう「昭和世代」とは、五木自身が属する昭和一桁世代を指す。実際、二〇二四(令和六)年における九〇歳以上(昭和一桁世代後半)の割合は人口の二%[xxiv]で、全員が日本人の平均寿命を超え、まさに「退場」の時期を迎えている。

その世代的な「退場」を実感したのは、今年も滞りなく行われた「八月ジャーナリズム」でのことであった。「戦後八十年」を扱う番組や記事で語り手として登場したのは、もはや戦場に赴いた兵士でも、銃後の守りとして殿を任された少国民でもなく、敗戦時、六、七歳であった子供たちであった。もし、一〇年後、「戦後九十年」があるのであれば、少国民すら退場し、更に世代が下って戦争当時一歳や二歳だった人が最年長の語り手になるだろう。その時に語られるのは、戦後に彼ら・彼女らが見た戦争の傷が語られるのではないだろうか。さらに「戦後百年」がもしあるならば、戦争をあらゆる形で直接体験した全員が退場しているかもしれない。そういった意味で、今、祖父が鬼籍に入る前に記録を残すことは、何物にも代えがたい貴重な財産になるかもしれない。

当初、祖父より五つ下の祖母について書くつもりだった。というのも、祖母の実家・高島家は戦争によって大きく変化した家である。親戚で集まれば「戦争がなければ今頃悠々自適な生活をしていたに違いない」「何もしなくても孫まで養えるお金があった」とみなが口を揃えるほど、高島家は戦前まで裕福な家庭であった。しかし、戦況が厳しくなった昭和一九年、空襲を避けるため、駅前の家を運輸通信省(国鉄の前身)に売り払った。そして、その売って生まれた大金が戦後のインフレによって紙屑当然となってしまった。こうした劇的な変化に執筆の意義を見出し、祖母に聞き取りを行っていたが、敗戦時、祖母はわずか八歳。記憶に限界があった。

そのころ、横から話を聞いていた祖父がふと口を開き始め、しまいには曽祖父が乗っていた砲艦の話までし始めた。これをきっかけに「祖父の方が色々覚えているし、祖父に聞いてみたほうが詳細な記録が残せるのではないか」と思い、聞き取りの対象を祖母から祖父へ切り替えた。祖父が海兵を目指していたという話は幼少期から漠然と聞いていたものの、学校で航空機乗員の募集があったことや、空襲の復旧作業に駆り出されたこと、逆コースの一環で警察官になれなかった事は今回の聞き取りを行って分かった事であった。祖母については別の機会でまとめたいと思う。

オーラル・ヒストリーは、文字を残し、世間の動向に敏感な中間層以上、具体的には将校や官吏、政治家の記録が残りやすく、祖父のような中間層よりもやや下に位置する人々の記録は残りにくい。また、祖父は自身を「ノンポリ」と言っていたが、その「政治的無関心」であることが、当時の社会常識や政治状況と自分を相対化し、考える契機を奪っていたとも言える。そのため、祖父の言葉を単に受け取るのではなく、「なぜそう感じ、行動したのか」を整理・検討する作業が、聞き取り手である私に課されていると感じた。

 祖父への聞き取りを通して痛感したのは、幼少期に受けた教育や思想が、想像以上に人格形成に深く根づいているということである。本人にとっては自明であっても、そう考える背景や理由を自覚することは難しい。祖父の場合、軍国主義教育の影響を否定することは、自身の少年期を否定することに等しく、乗り越えがたい心理的抵抗があったのではないかと推測する。

 また、聞き取りを進めるなかで、自分の先入観が理解を妨げる瞬間もあった。たとえば「小学校の頃はやっぱりご飯に困った?」と私が尋ねたとき、祖父は「いや、田舎だったし、父が警察官で貰い物も多かったから、食べ物に困ったことはないな」と答えた。私は自分の思い込みを恥じた。思い込みのまま聞くと、時には正しい情報さえも切り捨ててしまう可能性もあり、注意しなければならない。

また、質問の仕方にも工夫がいる。質問をする際、対象が高齢であるほど、また質問が漠然としているほど、答えも抽象的であいまいな回答になりやすい。ゆえに、対象者の育った環境や時代背景、地域の歴史、兵士であれば所属した部隊史や軍歴簿を事前に取得するなど、聞き取り以前に求められていることは多い。

 最後に、御年九三歳の祖父を酷使してしまったことを詫びたい。いくら孫とは言え、思い出すまでの苦労と、喋り続けることの体力を考えると、いくら何でもやりすぎてしまったと反省している。また、この聞き取りも、八十年論集も、ある意味「独りよがり」であったことは自覚している。しかし、抑えられない知的好奇心と、「何が何でも記録に残す」という私のかつての後悔の念であることはご理解いただきたい。執筆に当たっては、その独りよがりが、どう社会的に意義があるのか常に問いながら執筆したつもりである。その中で能力不足を何度も痛感したものの、これからの大学生活においてそれがバネになることを祈り、結びとしたい。

参考文献

清水唯一朗「オーラル・ヒストリーの可能性―仮説の発見と実証―」立命館大学、

https://www.ritsumei.ac.jp/ps/assoc/policy_science/common/file/rpspp/discussion_paper004.pdf

二〇二五年一一月三日最終閲覧。

新谷恭明「1940年代前半『福岡県教育』掲載記事の分析― 国民学校令の実施をめぐってー」九州大学附属図書館、https://api.lib.kyushuu.ac.jp/opac_download_md/1905835/p017.pdf二〇二五年一一月三日最終閲覧。

富樫 耕介「『記憶』を『記録』する:あるシベリア抑留経験者のオーラル・ヒストリー(1)─出生から徴兵まで─」『東海大学教養学部紀要』二〇一九年、二六九―二八五頁。

富樫耕介「『記憶』を『記録』する:あるシベリア抑留経験者の オーラル・ヒストリー(2) ─満洲における兵役―」『東海大学教養学部紀要』二〇二〇年、二一三―二三一頁

富樫耕介「『記憶』を『記録』する:あるシベリア抑留経験者のオーラル・ ヒストリー(3)ビロビジャンとハバロフスクにおける抑留」『同志社政策科学研究』第二二巻第二号、二〇二一年、一四三―一五七頁。

独立行政法人国際協力機構「戦後日本の栄養状態改善の経験とその教訓 県レベルデータによる定量分析」、https://www.jica.go.jp/Resource/activities/issues/nutrition/ku57pq00002mycrq-att/report_2103.pdf二〇二五年一一月一四日最終閲覧。

福井英雄「逆コースと戦後体制の形成」『年報政治学』四二巻、一九九一年。https://doi.org/10.7218/nenpouseijigaku1953.42.0_211

福岡県警察史編さん委員会「福岡県警察史 明治大正編」福岡県警察本部、一九七八年、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/9770228二〇二五年一一月一六日最終閲覧。

福岡県警察史編さん委員会「福岡県警察史 昭和前編」福岡県警察本部、一九八〇年、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/9773398二〇二五年一一月一六日最終閲覧。


[i] 二〇二五年現在、軍人恩給を受給しているのは全国で七九二人、佐官以上は一人。(読売新聞七月三日朝刊より)

[ii] 就職活動が差し迫っている私にとって、本学部の富樫耕介先生が行ったオーラル・ヒストリーの手法を参考にした。その富樫先生が参照された小熊英二「生きて帰ってきた男―ある日本兵の戦争と戦後」にも目を通し、オーラル・ヒストリーで取り上げる範囲を戦時下の一時点ではなく、人生から戦争体験を位置付ける試みを採用した。

[iii] 総務省「一般戦災死没者の追悼小学生ではなく「少国民」」https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/kids/04_03.html二〇二五年一一月一四日最終閲覧。

[iv] 金子ちひろ「焼跡闇市の記憶と妄想の軌跡 ―「破滅芸人」野坂昭如にみる日本の「戦後」―」小熊英二研究会、二〇〇五年。https://oguma.sfc.keio.ac.jp/sotsuron/2005/2005kaneko.pdf二〇二五年一〇月四日最終閲覧。

[v] 「戦後の価値観に一応の適応を見せた点では普遍的ともいえる」と記載したが、祖父がかつての自分を「軍国少年だった」や「あの時はみんなそうだった」などと相対化し、平和主義に対する一定の理解が聞き取りの中で見られたためそのように記載している。

[vi] 小熊英二「生きて帰ってきた男ーある日本兵の戦争と戦後」岩波書店、二〇一五年、三八四~三八七頁。

[vii] 境正善「かみうち村 郷土史 歴史・写真・昔ばなし」一九八四年。一四六頁。

[viii] 新藤東洋男「上内地方の近現代史 ―一地域の近現代史研究の試みー」大牟田の教育・文化を考える会、一九九一年、五七~六五頁。

[ix] 私が二〇二四年六月に厚生労働省から取得した朝吉の軍歴書(原本通り記載)には

入籍番号:佐徴水第250号、佐志水第4111号

年月不明 佐世保海兵団二入団ス

同日 海軍四等兵を命ズ

昭和11年12月1日 志願兵へ転籍

昭和13年12月1日 予備役へ転入

とある。しかし、厚労省が大正を昭和と誤記した可能性が高い。昭和一一年一二月当時、朝吉は三八歳であり、高齢で急な志願兵転籍はめったにあり得ず、祖父も昭和一一年から一三年は既に警察官で戦争には行っていないと言う。確認すると、朝吉は昭和一一年~一三年に撮られた写真に全て警察官の服を着て写っている。そのため、この軍歴書の昭和を、大正と考えた方が全ての年数に辻褄が合う。つまり、一九一九年に満二〇歳で徴兵され、四年現役兵として服務。(一九二七年の兵役法改正で三年に短縮されているので、なお昭和を大正と考えた方が年数が合致する)。一九二二(大正一一)年一二月に二年の再服役を申し出て、一九二四(大正一三)年一二月、二六歳で予備役編入という形が最も可能性が高い。

軍歴書は満州事変以降急増し、朝吉はそれ以前の軍歴書になるため当時から手に負えなくなり、厚労省はその行政的な手続きの複雑さから年月不詳と記載したのではないかと考えられる。

[x] 防衛庁防衛研究所戦史室「戦史叢書 中國方面海軍作戦1―昭和一三年三月までー」朝雲新聞社、一九七四年。https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=072 二〇二五年一一月七日最終閲覧。

[xi] 国立社会保障・人口問題研究所「人口統計資料集」二〇一四年。https://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/Popular/P_Detail2014.asp?fname=T05-02.htm

二〇二五年一一月一四日最終閲覧。

[xii] RKB毎日放送「高校3年生のオリンピック銀メダリストを輩出した”県内初の25メートルプール”完成から85年、今どうなった?」

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1853748?page=

[xiii] 朝日新聞「頓田の森の悲劇今こそ語る」二〇一六年三月二一日。http://www.asahi.com/area/fukuoka/articles/MTW20160322410740001.html?msockid=39a294997c9f6d5105f1864b7d4d6c79二〇二五年一一月一四日最終閲覧。

[xiv] 佐藤卓己「八月一五日の神話―終戦記念日のメディア学」筑摩書房、二〇一四年。

[xv] 福岡市「復員・引き揚げと送出-海の玄関口・博多港」二〇二二年。https://www.city.fukuoka.lg.jp/fukushi/somu/hikiage/fukuin.html 二〇二五年一一月一四日最終閲覧。

[xvi] 甘木町史編さん委員会「甘木町史 下巻」一九八一年、二九三ー二九四頁。

[xvii] 小熊英二「生きて帰ってきた男―ある日本兵の戦争と戦後」岩波書店、二〇一五年、一七八頁。

[xviii] 小国喜弘「戦後教育史」中央公論新社、二〇二三年、八頁。

[xix] 国立社会保障・人口問題研究所「人口統計資料集」二〇二五年https://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/Popular/P_Detail2025.asp?fname=T11-03.htm

二〇二五年一一月一七日最終閲覧。

[xx] 谷顕子「戦後日本における食料の需要体系分析」信州大学農学部紀要第五二巻、二〇一六年。Agriculture52-01.pdf二〇二五年一一月一四日最終閲覧。

[xxi] 文部科学書「学制百二十年史概説」https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318255.htm二〇二五年一一月一一日最終閲覧。

[xxii] 三一書房編集部「戦後学生運動資料第2巻 (1950-1952)」三一書房、一九六九年、四二八頁。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9582686 最終閲覧二〇二五年一一月一四日。

[xxiii] 中嶋嶺雄「香港回帰―アジア新世紀の命運」中央公論新社、一九九七年、一〇五頁。

[xxiv] 二〇二三年度の総務省「人口推計」より計算したもの。九〇歳以上の人口を総人口で割った数字。https://www.stat.go.jp/data/jinsui/2023np/index.html

二〇二五年一一月一五日最終閲覧。

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