【個人論文A】太平洋戦争下における帝国日本の文化財保護の特質―大阪府、奈良県、京都府の事例を中心に―

文学部文化史学科

矢田主 蒼空

はじめに

 今日の日本では、歴史や民俗を後世に伝えるため、多様な種類の文化財が「文化財保護法」のもと保護されている。それでは、今から八〇年ほど前、軍国主義を掲げて太平洋戦争へと突き進んだ当時の日本ではどうであったか。国民の余剰的な活動が「不要不急」と排撃され、生活の全てを戦争へとつぎ込まされた時代において、文化財は十分に保護されていたのだろうか。明治時代から現代における文化財保護史のなかで、第二次世界大戦期の文化財保護については相対的に先行研究が少ない。人間を人間たらしめる大いなる要因であると考える「文化・精神」の側面が挙国的に不要と見なされた時代において、文化財保護の施策がどのように行われてきたのか。その実像を改めて克明に解き明かすことは、文化財保護史を考えるうえで計り知れない意義があると考える。本稿では、国内でも数多くの文化財を有する大阪府、奈良県、京都府におけるいくつかの事例を踏まえたうえで、太平洋戦争とそこに向かう時期における文化財保護の特質の一端を素描することを目指す。

 

第一章 太平洋戦争時の文化財保護

太平洋戦争時の文化財保護政策に関して、文化財保護委員会が一九六〇(昭和三十五)年に編集した『文化財保護の歩み』に簡潔にまとめられている。これによると、「大東亜戦争」が開戦した一九四一(昭和十六)年以降、文化財行政も他の文化政策と同様に不要不急の事業と見なされ行政の簡素化が遂行された。例えば、一九四三(昭和十八)年以降、重要美術品の認定及び名勝、天然紀念物の指定を当分の間停止することが定められた[1]。これ以降、国宝及び史跡の指定、ならびに既存の文化財の修理や管理といった保存事務に焦点を絞った文化財保護行政が終戦まで継続された。後者に関して、戦局の悪化に伴い国宝、重要美術品ならびに史跡、名勝などの防空対策が一九四三年より本格的に施された。国宝に指定されていた姫路城(兵庫県姫路市)の天守や櫓に黒色の網をかけ、目を引く白壁が空襲の目標になることを避けた話は有名である。これは不動産たる建造物の例であるが、仏像など動産たる美術品に関しては、一都二府五県に設けられた収蔵庫への疎開措置が取られた。その対象となった美術品は約六五〇点にのぼる[2]。通覧したように、太平洋戦争時における文化財保護に関して、やはり不要不急の文化事業として文化財保護行政の簡素化が実行された。その一方で、激化が見越される空襲から既存の文化財を保護するための取り組みが実施されたとされる。それでは、近畿地方におけるその実態はどのようであったか。引き続き実施された国宝や史跡等の指定や既存文化財の保存措置は、具体的にどのように行われたのであろうか。次章以降では、近畿地方の中でも数多くの文化財を抱える京都府、大阪府、奈良県を事例を踏まえつつこの時代の保護行政の実態を素描していきたい。

第二章 京都府、大阪府、奈良県の文化財保護事例

 本章では、「大東亜戦争」時における一九四一(昭和十六)年から一九四五(昭和二〇)年における史跡名勝天然紀念物、重要美術品及び国宝建造物の指定事例を通覧し、その実態を素描することを目的とする。以下、この時期にどれほどの数の文化財が国の指定を受けたか確認していく。

 一九四一年から一九四五年にかけて新たに指定された日本列島内の国指定史跡を〈表1〉に、名勝・天然紀念物を〈表2〉に、国宝建造物〈表3〉に、認定された重要美術品を〈表4〉にそれぞれまとめた。これらを見ると、やはり一九四五年において各種の文化財で指定・認定数が大きく減少することが見て取れる。一九四一年から一九四二年にかけては、どの文化財においても年に複数回の指定・認定が行われ、その数も多い。特に、一九四一年の名勝・天然紀念物においては、年中に九回の指定が行われ、三十五件もの新たな名勝・天然紀念物が誕生している。これは現代と比較してもかなり多い数である。その後の年も、文化財の種別ごとに増減を繰り返しつつも、各種別で一定程度の指定・認定数を保ったまま推移している。ところが、一九四五年以降は新規文化財の指定に大きな陰りが見られる。この年の二月二二日に三件の史跡、五件の名勝および天然紀念物が新たに指定されて以降、終戦を経た年末まで文化財の新規指定は見られない。本土空襲の本格化、米軍の沖縄状況など国土に直接的な被害が出始めたために、文化財行政が停滞したことが想定される。その一方で、一九四三年以降も名勝・天然紀念物の指定及び国宝建造物の認定が引き続き行われていることが分かる。名勝・天然紀念物の指定及び重要美術品の認定を一時停止した措置に反して、それらの指定が少数ながらも引き続き行われていることが分かる。文化財の新規指定は、戦局が悪化が顕著に目立った一九四三年に伴い中断されたのではなく、東京大空襲の直前にあたる一九四五年二月まで継続されてきたのである。

〈表1〉1941年から1945年に新規指定された国史跡一覧(文化庁「国指定文化財等データベース」をもとに著者作成)

〈表2〉1941年から1945年に新規指定された国名勝および天然紀念物一覧(文化庁「国指定文化財等データベース」をもとに著者作成)

〈表3〉1941年から1945年に新規認定された重要美術品一覧(文化庁「国指定文化財等データベース」をもとに著者作成)

〈表4〉1941年から1945年に新規指定された国宝建造物一覧(文化庁「国指定文化財等データベース」をもとに著者作成)

次に、この時期に指定された大阪府、奈良県および京都府の史跡、重要美術品および国宝建造物にはどのような傾向が見られるかを考えたい。〈表5〉から〈表7〉は、大阪府、奈良県、京都府に位置する史跡、重要美術品および国宝建造物のうち、一九四一年から一九四五年に指定、認定された事例を集成したものである。第一に、二府一県に限って言えばこの時期の史跡の指定件数は四件と非常に少なく、特徴は見出しがたい。国宝建造物も三十六件が指定されているが、傾向を見出すのは困難である。一方で全国に目を向けると、一九四三年の五月一日に、伊能忠敬墓や高橋至時墓、高島秋帆墓など東京都内に位置する六件の近世の著名人墓がひとくくりに指定されている。先人の顕彰的な意味合いが想定できよう。第二に、重要美術品に関しては、特に一九四三年以降、「紺紙金字後奈良天皇宸翰阿弥陀経」など皇室関連の美術品の指定が目立つ。詳細な検討はできなかったが、皇国史観的なイデオロギーが指定された文化財の内訳に反映された結果と見ることもできるかもしれない。以上見てきたように、戦局の悪化に伴い文化財保護行政は確かに縮小したが、完全な停止には至らなかったこと、また、この時期の新規認定された重要美術品には、天皇に関するものが多く見られ、皇国史観的イデオロギーが内在し得る可能性があることが判明した。保護行政に関して、このようなイデオロギーが顕著に反映されていると考えられる事例があるので、第三章で紹介する。

〈表5〉1941年から1945年に新規指定された大阪府、奈良県、京都府の史跡一覧 (文化庁「国指定文化財等データベース」をもとに著者作成)

〈表6〉1941年から1945年に新規認定された大阪府、奈良県、京都府の重要美術品一覧(文化庁「国指定文化財等データベース」をもとに著者作成)

〈表7〉1941年から1945年に新規認定された大阪府、奈良県、京都府の国宝建造物一覧

(文化庁「国指定文化財等データベース」をもとに著者作成)

第三章 「楠公」関連史跡の保護行政の実態

 皇国史観的イデオロギーの風潮の中で、楠木正成、正行父子は忠臣たる「大楠公、小楠公」として称えられ、臣民が模範とするべき存在とされてきた。大阪府千早赤阪村には、楠木正成が鎌倉幕府の大軍と戦った千早城や上赤坂城といった城跡が、「楠公」にゆかりの史跡が数多く位置する。これらの史跡は、一九三四(昭和九)年に指定されている。ところが、これらの史跡を巡る保護行政には、皇国史観的なイデオロギーが介在していることが垣間見えるのである。

第一に、そもそも史跡の歴史的意義が十分に議論されないまま、皇国史観的イデオロギーを背景に指定が遂行された史跡が見られる。一九三四年に史跡指定された「赤阪城跡」は、楠木正成が拠った城郭とされる。しかし、当時の地表面観察においても城郭に特有の遺構は見られず、指定地には一面の棚田が広がるのみであるうえに、地形上の観点から城郭を築くのに相応しくない場所であることも指摘されている。一九九〇年代に行われた発掘調査でも、南北朝期に城郭が存在していたことを示す遺構や遺物は見られなかった。すなわち、ここに城郭が存在していたか否かは今も判然としておらず、史跡指定に踏み切る以前に城郭の存否や存在した場合のその歴史的意義に関して議論することが必要であることは言うまでもない。それにも関わらず、「楠公が戦った城跡があった」という伝承を根拠に、赤阪城跡を史跡に値する遺跡と判断し、国史跡に指定したのである。楠公を仰ぐ皇国史観的なイデオロギーが史跡指定にまで色濃く浸透していたことが指摘できる[3]

第二に、楠公ゆかりの史跡を活用した観光政策が、国民の精神昂揚と深く結びついていた点が挙げられる。千早赤阪の城郭をはじめとした楠公関連の史跡は、国民の精神昂揚に大きく結びついていたことは事実である[4]。太平洋戦争が勃発する以前の一九三五年(昭和十)に、富田林から千早赤阪の城郭跡を経て、天野山金剛寺に至るまでの楠公に関連する史跡を「楠公史跡観光ルート」として位置づけ、それらを結ぶ道路の道幅改修や植樹などを実施する事業が提案された。この事業には六八万一千円の予算が組まれ、同年に府会を通過した[5]。事業目的として、やはり楠公関連の史跡を軸として活用し、国民に楠公のような報国の精神を昂揚させる点が指摘できる。ここにも、皇国史観的イデオロギーが文化財に関する政策に波及していたことが窺えるのである。なお、整備された道路も、太平洋戦争の最中、食料増産のための妨げとなることを原因として、史跡間を結ぶ道路の多くが切り取られ、事業は頓挫することとなった[6]。ここでも、文化財に関する政策が戦局の悪化を遠因として縮小を余儀なくされている様子を見て取れる。

おわりに

本稿では、太平洋戦争及びそこに向かう時期における文化財保護の特質の一端を、近畿地方を中心に解明してきた。複数の事例紹介にとどまったが、それらの事例からも、戦局の悪化に伴い、文化財保護行政の縮小化が顕著に見られてきたことが指摘できた。しかし、縮小したとはいえ完全に停止したわけではなく、従来の認識とは異なり、名勝・天然紀念物や重要美術品の指定・認定が一九四三年以降も行われていたことが分かった。また、千早赤阪村の史跡の事例からは、皇国史観的なイデオロギーが保護行政に深く介在していたことが見て取れた。総じて、この時期の文化財保護行政は、太平洋戦争や皇国史観のあおりを大きく受けていたことを改めて確認する結果となったといえよう。

参考文献

窪田博『常用日記』一九四一年五月十二日、窪田祥太郎所蔵

千早赤阪村史編さん委員会『千早赤阪村誌 本文編』千早赤阪村役場、一九八〇年

文化財保護委員会編『文化財保護の歩み』大蔵省、一九六〇年

文化庁「国指定文化財等データベース」(https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index) 二〇二五年十一月三日閲覧

立命館大学文学部考古学・文化遺産専攻『千早赤阪城跡群調査報告書』一般社団法人千早赤阪楠公史跡保存会、二〇二五年


[1] 文化財保護委員会、1960、pp.84-85

[2] 文化財保護委員会、1960、pp.86-87

[3]立命館大学文学部考古学・文化遺産専攻、2025、p.12

[4] 窪田博氏は、一九四一年五月十二日に観心寺や千早城跡、金剛山といった楠公関連史跡を一日かけて訪問しているが、そのことを「大日本、精励の興揚を囁かるる折、大いに意義ある事」と捉えている。(窪田、一九四一、p.143)

[5] 千早赤阪村史編さん委員会、1980、p.374

[6] 千早赤阪村史編さん委員会、同上、p.375

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