【個人論文A】なぜ長崎よりも広島が象徴的に「記憶」されたか─文学作品における両市の表象の違いから─

政策学部政策学科 堺 凌

はじめに

私が小学生の時、修学旅行で長崎を訪れた。幼い心ながら、原爆の残虐性や、天を指差す平和祈念像の姿を強烈な印象をもって脳裏に刻んだ。その後、大学へ進学し、親族の遺品や資料を整理する過程で、親類の一人が広島で被爆していた事実を知った。記録によれば、母が被爆した彼を広島から福岡まで彼を背負って連れ帰り、懸命に看病したという。横たわると背中の肉が垂れ下がるほど凄惨な火傷であった。この記録に接した瞬間、私の中で「原爆」や「平和」という概念は単なる歴史上の出来事から、自らのアイデンティティを構成する不可欠な要素へと変容した。いわば、時空を超えた被爆者の「記憶」が、私に伝承された瞬間であった。

 一方で、一つの違和感を抱くようになった。それは、広島と長崎が等しく凄惨な被害を受けた被爆地であるにもかかわらず、社会において流通し、人々が保持している「記憶」の量と質に、著しい非対称性が存在するという点である。大学図書館に足を運べば、『ヒロシマ──壁に残された伝言』や『ヒロシマ・パラドックス』など、広島の名を冠した書籍は枚挙にいとまがない。作家・大江健三郎は一九六三年に広島を訪れて以来、『ヒロシマ・ノート』を著し、その後も広島へ通い続けた。対照的に、大江は長崎を取り扱わなかった。むしろ広島の次に、米軍基地問題に揺れる沖縄へと目を向け、『沖縄ノート』を世に送り出した。

 このように、広島が単独で象徴化される一方で、長崎は「ヒロシマ・ナガサキ」と併記される形で語られることが多く、人々が「原爆」を想起する際の記号も、その多くが広島の原爆ドームに収束している。なぜ、長崎よりも広島の方が、結果としてこれほどまでに強く記憶されるに至ったのか。本稿はこの問題意識に基づき、先行研究では十分に対比されてこなかった「文学作品における表象」という側面から、両市の記憶の格差を明らかにしたい。

 被爆の記憶に関する先行研究では、日米両政府が投下主体を曖昧にしてきた政治的背景や、放射線被害の隠蔽工作などが指摘されてきた(柴田、二〇一五)。また、広島の産業奨励館が「原爆ドーム」として保存されたのに対し、長崎の浦上天主堂が取り壊され、再建されたという「モニュメント」の差異が、両市の記憶のあり方を規定したと分析している(福間、二〇一六)。しかし、記憶の差は物理的な遺構のみならず、その地を舞台とした物語や言葉の性質にも起因しているはずである。

 本稿の第一章では、まず、両市に「記憶」の量・質に格差があることを紹介する。第二章では、広島を舞台とした文学作品を分析する。原爆文学の金字塔・井伏鱒二『黒い雨』や大江健三郎『ヒロシマ・ノート』、中沢啓治『はだしのゲン』に見られる「怒り」「告発」「社会変革」という広島作品の動的な性質を明らかにする。第三章では、長崎の永井隆『長崎の鐘』やカズオ・イシグロ『遠い山なみの光』に見られるキリスト教的背景を伴った「祈り」「忍耐」という長崎の静的な性質を明らかにする。

 

第一章 広島と長崎の非対称性

両市の比較の前に、長崎よりも広島の方が象徴的に「記憶」されているという事実を提示せねばならない。

両市は同じく国立の平和祈念館を抱えているが(広島市:国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、長崎市:国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館)、訪問数には大きな隔たりがある。二〇二四年、広島平和祈念館の入館者は過去最多の二二六万人を記録し、外国人の入館者も前年度比八・六%増の七二万八三八五人と、過去最多となった[1]。一方で、長崎原爆記念館は二〇二四年度の入館者数が前年度比六・九%増の八一万八二五人となり、二三年ぶりに八〇万人を超えたが[2]、広島とは三倍の差が開いている。この傾向は二〇一五年前後から顕著であり、二〇一六年のオバマ米大統領による広島訪問もその契機となったと推察されるが、本稿ではその政治的背景の詳細は割愛する。いずれにせよ、統計上、長崎が広島を上回ったことは一度もなく、関西圏からの近さといった地理的条件のみでは説明し得ない決定的な差が存在している。

また、文学作品や「言葉」による表象においても、取り上げられる量と質は大きく異なる。先述の通り、広島の名を冠した名著が数多く存在するのに対し、長崎はその量的な側面で劣後している。加えて、近年では国際政治の場においても「広島」の注目度は際立っている。二〇二三年のG7広島サミットにおいて、各国首脳やウクライナのゼレンスキー大統領が広島平和記念資料館を訪れたことは記憶に新しい。このサミットの影響も、現在の広島優位の状況を補強する一因となっているだろう。

しかし、歴史的に形成されてきた「ヒロシマ」という象徴の土台がいかなる変遷を経て構築されたのか、長崎との比較を通して検討する。以下では、文学的表象の差異に着目し、両市を取り上げた文学作品から、記憶の格差が生じた要因を明らかにしていく。

第二章 文学表象の差──怒る広島

 原爆文学の金字塔に井伏鱒二『黒い雨』がある。この作品は「連載中から評判になり、完成後も文壇こぞっての称賛を受けた作品は近ごろ珍しい」と言われるほど注目を集めた。作品は、主人公・閑間重松が広島で被爆し、娘のように可愛がる姪の矢須子の縁談に腐心することろから始まる。しかし、矢須子が「被爆者である」という噂から縁談が上手くいかない。重松は矢須子が被爆者でないことを証明しようと日記の清書を試みるが、その間に矢須子に原爆症が発症する。この主筋に沿って〈戦時〉、〈戦後〉を交差させて描いている。井伏自身は「ベトナム戦争が盛んな頃で、戦争反対の気持も含めて、極力事実を尊重してルポタージュとして書いた」と述べており、庶民の苦難を土台に反戦運動へと昇華させている。

しかし、投下主体のアメリカを糾弾するものではなく、異常な戦前の体制への拒絶と、戦後の回復から零れ落ちた被爆者を明確にしたものであった。江藤淳が言うように、イデオロギーに左右されない『黒い雨』は、問題を世に問いつつも、コンセンサスが取りやすい作品であった。

大江健三郎は障害を持つ長男・光との困難を抱え、広島に入った。そこで見たこと、聞いたことをまとめたのが『ヒロシマ・ノート』である。『ヒロシマ・ノート』は他方で、息子との関係性に苦しむ大江自身を癒すためのものでもあった。

作品には、被爆当時から原水爆禁止世界大会に身を投じる多彩な人が登場する。はじめに引用するのは奇形児を生んだ女性の話である。

奇形児を産みおとした。母親は被爆者でありケロイドもあり、そこで決心していたから、自分の生んだ奇形の赤んぼうをひと眼なりと見たいと願った。医者がそれを拒んだので、彼女は夫にそれを見てきてくれといった。夫はでかけていったが、赤んぼうはすでに処理されたあとだった。若い母親は、あの赤んぼうを見れば、勇気が湧いたのに!と嘆いたという。

『ヒロシマ・ノート』は、具体的に原爆の被害やその後の生々しい後遺症を描いている。また、被爆した中に朝鮮の方が居たのは現在でこそ通説だが、大江は早い段階から被爆朝鮮人について書き残している。

彼女のことを街の子供たちは「朝鮮の気違いばあさん」と呼び、かつては絶望した彼女自身、「原爆をおとしたアメリカをのろい、戦争をした日本をにくん」でいた。「あのころ神様の恵みを受けなかったら、私は自殺するか気違いになっていたでしょう。」信仰を得た彼女は、貧しく小さな教会を主催して正常に生きつづけているのだ。「いまとなってはアメリカも日本も恨んではいません。むしろ戦争でかたわになったとはいえ、韓国人の私が日本で生活保護を受けていることを、日本の人におわびしたい。私は、日本人とか韓国人とかいうことは別にして、五人の子供を失った母親として原水爆禁止だけ訴えたい。」

ここでは、日本の植民地支配、アメリカの原爆投下に対する憎悪が原水爆禁止という社会運動に結びついていることが分かる。また、大江が初めて広島を訪れ、次に来た際に亡くなっていた宮本定男の言葉を回想する瞬間がある。

私は広島から訴えます、人類初の原爆をうけた広島の街で今もなお、当時の白血病、貧血、肝臓障害などで、日夜苦しみ、悲惨な死えの闘いをつづけている人々が多勢おります。

このように、原爆文学は死んでいく被爆者を取り上げるだけという葛藤を超えて、それから先を見据えている人々の姿を確実に捉えている。大江は核兵器による屈辱や復興,モラリストや威厳といったことばをたびたび使用しながら,反戦と平和の象徴として「ヒロシマ」を描き出した。

また、中沢啓治『はだしのゲン』はNHKが行っている調査「戦争観に影響のあった映画・アニメ」で常に最上位を占めている(高畑勲の火垂るの墓が同列に位置する)。元々は漫画で、一九三九年、広島生まれの中沢の実体験に基づいている。中沢の身代わりとして小学生の中岡ゲンが主人公の物語である。原爆投下をテーマにした初の長編アニメである。さて、『はだしのゲン』では、投下主体のリトルボーイが原爆を投下し、その惨状を上映時間の六%も使っている。原爆の残虐性に焦点を当て、漫画版ではゲンの隣人は在日朝鮮人という設定もあるが、「被害者」としての側面が強いとの批判もある。

【図1】アルト・ヨアヒム「ヒロシマの原爆投下を語る戦争アニメにおける変化」The Japanese Journal of Animation studies(20)、2019、34pより抜粋

第二章をまとめると、以下の通りになる。『黒い雨』や『ヒロシマ・ノート』『はだしのゲン』などは、被害者としての側面を原爆の残虐性で一層強化し、軍都・広島と被爆の断絶から「敗戦」「旧体制の拒絶」を合わせて描きやすかった環境が揃っていたことが分かる。

第三章 文学表象の差──祈る長崎「神の摂理」

占領期のベストセラー『長崎の鐘』は長崎医科大で放射線医であった永井隆によって書かれた。加えて、彼はカトリック信者であった。永井は原爆で妻を亡くし、自身も被爆した。

【写真1】永井隆(一九〇八~一九五一)。島根県松江市生まれ。長崎医科大学に入学し、卒業後は助手として放射線物理療法の研究に取り組んだ。一九四五年に白血病で余命三年の宣告を受ける。八月九日には爆心地から七〇〇mの地点で被爆し、一九五一年永眠。

【写真2】永井と幼い二人の子供。

永井の『長崎の鐘』は前年の『この子を残して』と同様に占領期・日本でベストセラーになった。著作は余命宣告された永井が幼い二人に対して、原爆投下前後を振り返る形で書かれている。永井の著作群が当時ブームになった要因として、歴史家のジョン・ダワーはこう述べている。

ちょうどそのころ、平和と人間性にたいする罪のかどで、勝者による日本人への判決がでようとしていた。こうしたことが、そのころ強まりつつあった日本人の犠牲者意識の内容に影響を与えたのである。こうして、戦争そのものが「犠牲を生んだ張本人」だと意識され、学者であり、被爆都市で死のまぎわにあった人物であり、日本人を象徴する存在のように(永井が)思われた。つまり、われわれ日本人は悲惨な被害をこうむり、気高い犠牲を払ったのだという日本人の意識を強めるシンボルとして、永井が現れたのである。

つまり、加害者は、戦争を始めた人間(戦犯容疑者)であり、日本人の多くは被害者だった、という図式が永井を押し上げたのである。実際『長崎の鐘』出版後、一九四八年にヘレン・ケラーの来訪を受け、昭和天皇とローマ法王の慰問も受けた。同年には長崎市栄誉市民となり、一九五〇年には国会の勧告を受け、吉田首相による表彰を受けた。当初は余命三年と言われた永井だったが、潤沢なアメリカ軍の物資が流れ、余命の倍を生きた。一九五一年五月に永眠することとなったが、その二〇年後、永井の考えに「ついていけない」と長崎市内各所から反対の声が上がるようになった。というのも、永井自身が、爆発で全壊した浦上天主堂を「神にささげられたもの」や「とにかく偉大な発明だねえ、この原子爆弾は──」、原爆投下を「神の摂理」と表現するなど、原子爆弾の投下主体を曖昧にしつつ、「死んだのは神に選ばれたからである」とキリスト教を背景とした選民的アイデンティティの保持に努めていたからである。たしかに、幼き子供を残して逝く父としての永井や、戦争犯罪人に翻弄された「被害者」としての永井は受け入れられたが、原爆に対する根本的な視点が後世から批判を浴びた。永井が死んでから五か月後の一九五一年一〇月、広島から長田新『原爆の子──広島の少年少女の訴え』が出版され、作品は数十年に渡るロングセラーとなった。主権回復直前でGHQの検閲の目は緩んでおり、より「悲惨さ」に焦点を当てた作品を前に、永井の作品は霞んでしまった。

原爆投下から一五年後の長崎に生まれ、イギリスで育ったカズオ・イシグロの作品はどうだろうか。その前に、なぜイシグロが書くに思い立ったかと、執筆していた際のスタンスを押さえておかねばならない。カズオ・イシグロが長崎を舞台にした『遠い山なみの光』を書く際、イシグロ自身が二〇代半ばになり、幼少期の貴重な日本の記憶が徐々に消えつつあったことに危機感を感じていた。それを彼が二重のアイデンティティを抱えながらも書き留めようとしたものが『遠い山なみの光』ある。そして、一九九〇年一二月に受けたインタビューでは「私は常に小説の舞台にはかなり自由が許されると信じていました。例えばジャーナリスト、あるいは旅行ガイドを書く人、あるいは歴史家に求められるような正確さは必ずしも必要ないと思っていました」と答えており、戦後生まれで五歳にイギリスに渡った人間が「小説」として書いた作品と理解する必要がある。

一九八二年に発表された『遠い山なみの光』では、今はイギリスに住む日本人女性が、戦後五年ほど経った頃の長崎で暮らしていたときの経験を回想しながら、彼女の語りによって物語が進行する。長崎でのエツコは最初の夫、ジロウとともに暮らしていて、最初の子供を身ごもる。そのとき夫婦の住むアパートには夫の父、 オガタさんが泊まりに来ている。しかし、長崎時代の回想は、エツコの家族よりも、近所に東京から戦災をのがれて引っ越して来たばかりのサチコとマリコという親子とエツコとの交流を中心に展開している。サチコにはアメリカ人のボーイフレンドがおり、彼とアメリカに行くことを望んでいる。アメリカに一緒に行けば、暮らしも好転するからである。そして、作品の登場人物の内面には、闇の部分が心の深い所に隠されていることが分かる。その一例が、一見前向きでたくましい女性のように描かれているフジワラさんである。彼女は原爆のために、五人の子供のうち長男を除いたすべてと、長崎で偉い人物であったという夫を失い、戦後うどん屋を開いて生活を凌いでいる。市内にある稲佐山の展望台にエツコとサチコ親子の三人で遠足に出かけたとき、眼下の復興の進んだ長崎の市街を見晴らしながら、エツコは自分も生まれてくる子供のためにも過去を振り返るのではなく、フジワラさんのように前向きに生きなくてはならないと考え、サチコも同意する場面がある。しかし、うどん屋でしばらく働いたことのあるサチコは、その帰り道にフジワラさんについて「私には人生に何も残されていない女性のように見えたの」と呟いた。エツコは反論し、サチコも一応納得して場面は終わるが、戦後一見前向きに生き、明るくふるまっている人も、内面には癒えることのない精神的傷を負っていることを暗示させる一場面が出てくる。

『遠い山なみの光』に登場する人物はいずれも、形はともあれ原爆の傷に「忍耐」し、(というと語弊があるが、永井が言った「神の摂理」を継承している)、悲惨さ・政治的メッセージに多くが収斂した広島とは性質を異にしている。また、より直接的に原爆体験を綴った広島より、カズオ・イシグロは間接的に被害を描いており、イギリスでは大きな評価を得た作品だったが、日本では大きな反響は無かった。

最後に触れておかねばならないのは、広島・長崎両者に共通するのは投下主体が曖昧になっている点である。当初はGHQの検閲の意向だったが、侵略の果てに原爆を招いた日本側もこの妥協的な解釈に迎合し、この暗黙の了解が作品の節々に表れている側面は忘れてはならない。

おわりに

本稿では、第一章から第三章を通じ、長崎よりも広島がなぜ「象徴的」に記憶されるに至ったのかを考察してきた。その要因の一つは、原爆投下以前の都市の性格に求められる。広島は、第二総軍の司令部や大陸への出撃拠点であった宇品港、さらには陸軍被服支廠を筆頭とする軍事工場を擁する、国内有数の「軍都」であった。それゆえに、敗戦によって露呈した政治的矛盾を投影する場として、キリスト教の影響が強い長崎よりも、軍都であった広島の方が適していたという側面は否定できない。また、「祈り」の長崎に比べ「怒り」を背景にした文学の追従がこの傾向を補強したと言える。

 なお、当初の構想では、英語を用いて平和活動に尽力した被爆者の存在についても論じる予定であったが、紙幅の都合上、本稿での詳述は断念せざるを得なかった。広島からはサーロー節子、小倉桂子、近藤紘子といった各氏が国際的に活躍し、長崎からも山口仙二、下平作江といった著名な語り部が世界各地で証言活動を行ってきた。一九八二年の国連演説において山口氏が放った「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」という言葉は、今なお歴史に刻まれている。これら被爆英語話者によるスピーチの言説分析については、後日の課題としたい。

 私事で恐縮だが、近藤紘子氏とは本学社会学部の公開授業で直接お目にかかる機会を得た。かつては敵(アメリカ)を深く憎みながらも、投下機の乗組員との対話を果たし、「世界はみな兄妹である」との信念から平和活動に身を投じられた近藤氏のおおらかな姿は、強く印象に残っている。

 最後に、私はこれまで「戦争体験を聴けなかった後悔」を本誌でたびたび述べてきたが、実は一度だけ耳にした記憶がある。大正一五年に福岡県柳川市で生まれた曽祖母・江崎シズエの言葉である。柳川は詩人・北原白秋を輩出した、農業と漁業が盛んな穏やかな街だが、曽祖母は一九四五年八月九日、その柳川から長崎に立ち上る「きのこ雲」を見たという。柳川から長崎までは直線距離にして約六七キロメートル。彼女が他界した今、その証言の真偽を確かめる術はない。しかし、彼女によって紡がれた断片的な記憶が、私をこの論文執筆へと駆り立てたことは紛れもない事実である。

 厚生労働省の発表によれば、被爆者健康手帳保持者の平均年齢は八六・一三歳に達している。被爆者の生の声を拾い上げ、その記憶を次世代へと紡いでいくこと。それが、私に課せられた使命であると強く確信している。

参考文献

井伏鱒二『黒い雨』新潮社、一九六六年。

大江健三郎『ヒロシマ・ノート』岩波書店、一九六五年。

柴田優呼『ヒロシマ・ナガサキ 被爆神話を解体する──隠蔽されてきた日米共犯関係の原点』作品社、二〇一五年。

永井隆『長崎の鐘』サンパウロ、一九九五年。

中嶋,彩佳「Memoryscapes and Topographical Imaginations in the Novels of Kazuo Ishiguro (カズオ・イシグロの小説における記憶風景と地理的想像力)」大阪大学、二〇二四年。AN10579404_2011_30-11.pdf 二〇二五年一二月一九日最終閲覧。

中谷いずみ「専有された〈戦争の記憶〉──井伏鱒二「黒い雨」における〈庶民〉・〈天皇〉・〈被爆者〉」『日本近代文学第九三集』二〇一五年。https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkindaibungaku/93/0/93_137/_pdf/-char/ja二〇二五年一二月一九日最終閲覧。

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原民喜『夏の花・心願の国』新潮社、一九七三年。

平井法「カズオ・イシグロ論」『学苑・人間文化学科特集』(七七三)、二〇〇五年。

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福間良明「広島・長崎と『記憶』のねじれ『被爆の痕跡』のポリティックス」『立命館大学人文科学研究所紀要』(一一〇)、二〇一六年。no110_06.pdf二〇二五年一二月一八日最終閲覧。

水羽信男『ヒロシマ平和学を問う』丸善出版株式会社、二〇二〇年。

[1]朝日新聞デジタル「昨年度入館者数、最多226万人 平和記念資料館 外国人8・6%増」

二〇二五年四月五日。https://www.asahi.com/articles/AST443R8XT44PITB004M.html二〇二五年一二月一六日最終閲覧。

[2] 読売新聞オンライン「長崎原爆資料館、23年ぶりに入館者80万人超え…被団協のノーベル賞受賞で外国人観光客の増加など要因」二〇二五年七月二三日。https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20250723-OYTNT50019/二〇二五年一二月一六日最終閲覧。

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