文学部文化史学科3回生
畑田 瑛音
はじめに
明治憲法の発布によって「万世一系」の理念が標榜されると、矛盾を起こさないためにもこれまで明確に決定されていなかった歴代陵の治定が喫緊の課題となり、顕宗天皇陵をはじめいくつかの陵墓が治定されたが、果たしてそれは必ずしも学術的に正しいというわけではない。これらの天皇陵はあくまで『記紀』などの上代文献の記述をもとに推定されたものであり、具体的な発掘調査の成果を経て治定されたものは数少ない。例えば称徳天皇陵は奈良時代に築造されたにもかかわらず、佐紀古墳群の前方後円墳(佐紀高塚古墳)に治定されている。
また、一九〇〇年代初頭から、治定された天皇陵を巡る「皇陵巡拝」という活動が生じる。特に活動が顕著にみられるのは明治天皇の崩御後まもなくである。明治天皇陵は当時の一般民衆が初めて目にする「リアルタイムで築造された巨大天皇陵」であり、その感動は筆舌に尽くし難いものであっただろう。初めこそ崇敬の念をもって行われた巡礼ではあったが、「陵印」といったスタンプが置かれるようになるなど、次第にレジャー目的の側面をもつようになった。
本稿では、近代における天皇陵治定の実態や、その産物として生じた陵墓巡拝に関する詳細を論じていく。かなり概説的な文章となってしまったが、本稿を機に、現在まで続く陵墓問題の根源的事象に関する知識を涵養していただけたら幸いである。
第一章 天皇陵の決定
十七世紀から十九世紀前半、いわゆる「鎖国時代」において、徳川光圀や蒲生君平、本居宣長をはじめとしたいわゆる「好古家」たちによって荒廃した天皇陵の「探索」が始まる。当然ながら好古家たちは体系化された研究手法に即して天皇陵を推測していたわけではない。日本人の思想的淵源は文字(万葉仮名など)の使用によって次第に顕現するわけであるが、その萌芽を上代以前の歴史に求めていたのが好古家である。簡潔に述べると、彼らの活動の根幹をなすものは「純粋な探究心」であり、そこに体系的な学問要素はあまり必要とされなかったのである。とはいうものの、彼らの探索活動は無碍にされるべきものではなく、事実として近代における天皇陵治定の際も多少なり参考とされている。のちに挙げる「神武天皇陵」の例がそれである。
元禄・享保年間以前に決定されていた天皇陵は三十四陵、十八世紀から明治時代以前に新たに決定された天皇陵は五十五陵となる。
明治時代になると、新政府によって天皇陵の明確な「治定」が行われるようになる。「万世一系」の理念を標榜し、好古家たちによって集積されたデータを参考にしながら確定された。ここで「神武天皇陵」の事例について挙げておきたい。治定前の神武天皇陵の候補地は合わせて三箇所あり(左図参照)、かの貝原益軒や川路聖謨たちによって支持された「神武田(じぶでん)説」、元禄年間の江戸幕府の皇陵探索によって定められた「四条村塚根山説」、竹口尚重によって支持された「畝傍山丸山説」といった三説が鼎立する状況となったが、神武田周辺の字名が「ミサンザイ(=ミササギの訛りか)」であったことから、最終的に「神武田説」が採用されるに至った。このように、好古家たちの活動の成果は近代にも引き継がれており、そこに断絶があったわけではない。
明治時代に新たに決定された天皇陵は十九陵であり、ここから昭和時代にかけて全ての天皇陵が確定されていく運びとなる。

〈図〉江戸期の神武天皇陵推定地周辺地図(辻本正教『洞村の強制移転:天皇制と部落差別』解放出版社、一九九〇年 より引用)
第二章「皇陵巡拝」の成立と発展
巡拝が始まる以前に、単純な陵墓の参拝があったことに注目しておきたい。その先駆けとなったのは明治時代後半における奥野七陣の「報国社」結社・活動である。ここでの活動の一環として神武天皇陵への参拝者を募っていたことは着目すべきであろう。その他にも奥野は明治三十一年(一八九八)に『歴代御陵墓参拝道路御宮址官国幣社便覧』を発行しており、陵墓の巡拝を帝国臣民の義務として主張していた。当初の天皇陵の参拝・巡拝は明らかに崇拝目的であったことは言うまでもない。
転機となったのは明治天皇の崩御である。当然ながら追慕・崇拝目的での参拝も多かったが、「聖帝」と謳われた明治天皇の陵墓がどのようなものであるのかといった単純な興味をもとに、多くの人が明治天皇陵を訪れることとなった。ここで有効な輸送手段となったのが、明治四十三年に開業された京阪電車である。参拝客を電車によって輸送するといった発想は、この後に紹介する大正天皇陵の巡拝においても利用される画期的なものであった。
この陵墓巡拝ブームは明治時代以降も続き、大正六年(一九一七)には「大阪毎日新聞」社長の本山彦一によって『歴代帝陵巡拝図』の作成・配布が行われている。また、彼は「皇陵巡拝会」というものを結成し、各地の天皇陵を巡拝する有志を募っていった。この皇陵巡拝会の活動は大阪毎日新聞によって積極的に報道され、活動に触発された人々が巡拝会参加及び新たな巡拝会の結成を行なっていった。ここにおいて「皇陵巡拝」という語が大々的に使用されるようになる。
その後、大正天皇が崩御するにあたって、東京・多摩の地に天皇陵が築造されることとなった。ここにおいてサラリーマン層を中心として休暇の外出先に陵墓が選出されるようになった。有効な輸送手段として着目された京王電鉄はこれを利用して陵墓巡拝に伴う観光を推進したほか、鳥瞰図で有名な吉田初三郎によって『京王電車沿線名所図絵』が発行された際には、レジャー施設「京王閣」が併記されるなど、レジャー的要素を強くもつように変化した。
その後、軍国主義が強まっていくにつれて、文化的営為の側面を伴った「皇陵巡拝」は次第に消滅していくこととなった。
おわりに
以上が戦前における天皇陵治定と陵墓巡拝の実態である。この時行われた治定や巡拝によって「天皇陵がここにある」という認識が強まった。一方で、被葬者と陵墓自体の年代の差異や宮内庁の管轄を起因とした発掘調査の停滞など、現代まで様々な課題が残されているのもまた現状である。読者の皆様についても、ぜひご一考を願いたい領域である。
あとがき
学術論文としては相応しくないが、サークル活動全体を通して最後に寄稿する論文ということもあって、少しだけ回想に耽らせていただきたい。
幼い頃の私は(ごく当たり前のことではあるが)、生まれた瞬間から既に世の中のシステムの基盤が整っていたことに対して、形容しがたい魅力を感じていた。過去人類の営為によって、あるときは愚直に、またある時は正しく歪ませられながらも、総じて偶然的に積み重なっていったラプスの中で生きていることが、身震いするほどに奇跡的であるとさえ思えた。このような衝動を胸中に据えたまま、現在まで絶えず様々な史跡・名勝を探訪し、気づけば歴史美術研究会の一員として周囲の方々と知見を深め合うこととなった。本サークルの皆様は、これまで私が誰にも共有できなかった関心分野を好意的に受け入れてくださり、活動を通して様々な知見を教示してくださった。この場を借りて感謝申し上げる。
さて、ここで私が伝えたいのは「歴史は身近にある」ということである。歴史学は専門性を持つ学問でありかつ親しみやすい学問でもあることは言及するまでもないだろう。あなたが生きている間に起こった全ての出来事は、ミクロに捉えれば「自分史」の歴史的転換点であり、マクロに捉えれば連鎖的に全体の歴史を構築していくのである。特に後者はあなたが生きている・生きていたことの揺るぎない証左となりうる。今後の展望を見失った際、あなた自身のこれまでの営為が世界の歴史を少しずつ動かしていることを思い出し、未来へ前進していく勇気を抱いていただきたい。
そして、どうか歴史美術研究会の活動を通して得た知見や経験、そして感動を、多少なりとも記憶に留めておいていただきたい。本サークルの歴史はあなたによって紡がれたものであり、あなたの歴史は本サークルによって彩られたものである。とても素敵なことではないだろうか。
参考文献
徳田誠志「『大大阪」時代の陵墓巡拝について」『なにわ大阪研究 第7号』、二〇二〇年、八十九─一〇五頁。
辻本正教『洞村の強制移転:天皇制と部落差別』解放出版社、一九九〇年。

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