青春と戦後民主主義─占領期改革から安保闘争へ─

 法学部法律学科 奥見 龍 スバント

はじめに

 戦後の日米関係は我が国の安全保障をはじめとする外交上の問題を語る上で避けられない素因であるが、それのみならず内政にも少なくない影響を与えている素因である。日米関係が国内の政治的活動に与える影響、あるいは国内の政治的活動が日米関係に与える影響についての考察は、今現在も刻一刻と様相を変える国際情勢から、我が国がいかなる影響をどの程度受けるかを予測するにあたって有意義であると考える。

 本稿では、政治的活動のうち学生運動を取り扱う。学生は国家権力から相対的に自由であり、同時に社会変動に対して敏感に反応する集団であるといえ[1]、このため学生運動の盛衰やその思想的変化は、戦後日本の政治構造が外部からの圧力(米国の政策転換、安全保障戦略)をどのように受容し、またこれにいかに応答したかを読み解くための指標として有効であると考える。占領直後から六〇年新安保闘争までを対象に、逆コースをはじめとした戦後の日米関係の接近という外交的動向と占領統治下およびそれ以降の学生運動に対する政府の反応という内政的動向の両者を結びつける素因を発見することを目標としている。

研究対象

 本稿は①占領後の占領政策の転換、②一九五〇年のレッド・パージ、③六〇年安保闘争を研究対象とする。理由は以下に詳述する。

 ①占領政策の転換(いわゆる逆コース)は、戦後日本における米国の対日戦略が「民主化・改革」から「反共・安定化」へと大きく舵を切った転換点であり、以後の政府の治安政策・学生運動への姿勢形成に直接に影響を与えたと考えられるためである。②一九五〇年のレッド・パージは、米国の国際戦略(冷戦構造の固定化)と日本国内の政治構造が密接に連動した典型であり、学生層・労働運動・知識人層に強い衝撃を与えた。これは、後の学生運動が国家権力との関係をどのように理解し、自らの闘争をどう正当化したかを読み解く上で不可欠である。③六〇年安保闘争は、戦後初の最大規模の大衆運動であり、学生運動が社会運動全体の中で果たした役割が明確に可視化された局面である。同時に、米国からの安全保障期待と日本政府の対応(警察力の動員、政治決定過程)との結びつきを検証する格好の素材となる。

 以上の三事件はいずれも、戦後の日米関係(外交要因)と国内学生運動(内政要因)が最も緊密に連動した局面であるという共通性を持つ。このため、本稿はこれら三つの時期を対象として分析を行う。

 なお、本稿では一九七〇年新安保闘争は扱わない。七〇年安保は学生運動の内部的変容と国内制度要因の影響が大きい時期であり、占領期から六〇年安保にかけて顕著であった「日米関係と学生運動の直接的連動」という本稿の分析視角からは、やや性質を異にするためである。

第一章 逆コース:戦後日米関係の再編と国内政治への影響

 本章では、まず戦後日米関係の接近に至る経緯を概観しつつ、国内政治の変容について記述し、戦後日本における「外交—内政」の連関を明らかにする。

 占領初期の連合国軍最高司令官司令部(GHQ/SCAP)の施策は「非武装化・民主化」の目的に基づくものであった[2]。GHQの中枢部局である民政局(GS)は右の目的に従い、憲法改正、公務員制度改革、財閥解体、公職追放等を推進した。GSの局長であったホイットニー(C Whitney)准将は「急激かつ徹底的な変革をおこなうことによってのみ、改革は達成できると確信して」おり、政治的民主化のみならず、経済的民主化をも推し進めた[3]。またGS次長であったケーディス(Charles L Kades)大佐はいわゆる「ニューディーラー」として民主化改革で辣腕を振るった[4]。しかし、日本の国力を削ぐことに重点を置いたこれらの社会民主主義的な政策は長くは続かなかった。

 冷戦の激化が端緒であった。トルーマン・ドクトリン(共産主義封じ込め政策)を推し進めたアチソン(Dean G Acheson)国務長官は早くも四七年五月の段階でドイツと日本を「ヨーロッパとアジアの二大工場」と位置づけ[5]、両国の経済復興を促している。さらに四八年一月には、ロイヤル(Kenneth C Royall)陸軍長官が、日本を「今後極東に生ずべき他の全体主義的戦争の脅威に対する制止役」たらしめるために、「充分に強くかつ充分に安定した自足的民主政治を日本に建設するという、(中略)確固たる目的を固守する」と表明した[6]。同年四月にはドレーパー(William H Draper Jr.)陸軍次官が賠償の大幅緩和、民間貿易の拡大など日本の経済復興計画を勧告する内容のドレーパー報告書を長官に提出している[7]。GHQ内部でも、日本を「反共の砦」と見なす、参謀第二部(G2)の部長ウィロビー(Charles A Willoughby)少将がホイットニー局長やケーディス次長と衝突するようになった[8]。GSは社会党をはじめとする革新系の連立与党を、G2は反共主義を掲げる民主自由党を後援して対立した[9]

 国内情勢に目を向けると、四八年六月に戦後初の大規模な汚職事件となる昭和電工事件が発覚、芦田内閣の前副総理が検挙されたほか、ケーディス次長の収賄容疑も取り沙汰された[10]。この一件を期にケーディスは発言力を失い、GHQ内の主導権はGSからG2に移る。冷戦構造が明確化する中で「逆コース」が一層顕著となった。奇しくも、芦田内閣が総辞職した四八年十月七日同日、米国家安全保障会議が十三/二文書「アメリカの対日政策に関する勧告」を承認し、対日政策の方針転換、いわゆる「逆コース」は決定的となった[11]。財閥解体は不完全な形で済まされ、追放解除によって公職追放された戦前戦中の指導者層が社会復帰を果たした。

なお、この勧告の背景には、アメリカ対日協議会による本国でのロビー活動の影響も大きかったことを付言しておく[12]

 中道左派であった芦田政権の崩壊後には生粋の保守たる吉田政権が成立し、同内閣は四九年一月の総選挙において大勝を果たす。マッカーサーが「反共の防壁」声明を発表し、日本が西側陣営としての立場を確立するのは、同年七月のことである。

 以上をまとめると、まず社会民主主義的な対日政策を進めたGSは、冷戦に備える本国の意向により方針転換を余儀なくされ、国内の汚職事件への関与もあってGHQ内での影響力が低下した。そして、これに代わって主導権を握ったのが反共主義を掲げるG2である。G2は過度な経済的民主化政策に歯止めをかけ、追放解除などの逆コースを主導した。なにより特筆すべきは、GHQ内部の政治力学が国内政治に相当程度の影響を持っていたということである。G2の支持を得た吉田政権が戦後で三本の指に入る長期政権となったことも、この主張を補強する事実といえよう。

 吉田は「経済復興重視、軽武装」の方針を固め、外交面では「日米安保体制を軸とした対米協調」を据えた。吉田が確立したこの枠組みは、後の政権にも継承され、現在に至るまで日本の外交・安全保障の方向性を規定し続けている[13][14]

 戦後ほどなくして復権を果たした保守勢力と比して対照的なのが、日本共産党である。日本共産党は戦後日本の学生運動に対して大小様々な政治的影響を与え続けた。次章に移る前に、日米関係再編下での日本共産党の政治的地位について、少しだけ触れておく。

 占領開始直後、GHQは共産党を合法化し、五大改革指令を通じて労働組合結成を奨励した。これにより労働組合が爆発的に増加し、労働運動も急増した。当初、日本共産党は占領軍を解放軍として歓迎し、四六年には「ポツダム宣言の厳正実施」を含む十二項目からなる「人民戦線綱領」を発表した[15]。経済状況悪化に伴って全国的な連帯も高まり、「事実上日本共産党の指導の下に」全日本産業別労働組合会議(産別)の結成が行われたとされる[16]。産別は、社会党と連携した日本労働組合総同盟(総同盟)と双璧をなすナショナルセンターとして当時の労働運動において突出した影響力を示した。活発化する経済闘争はやがて政治闘争に変質し、四六年には吉田内閣打倒国民大会が五十万人規模で開催されるに至った[17]。そして四七年には、全国労働組合共同闘争委員会(全闘)の結成を契機に、官民を横断する全産業的行動を目指すようになり、いわゆる二・一ゼネストへと結集していった。

 しかし、GHQはこのような「致命的な社会的武器」[18]の行使を認めなかった。決行前夜、マッカーサーは直々にゼネストの中止命令を下し、参加者約四百万人とも目されたゼネストは直前で頓挫する。「蜜月」かと思えた日本共産党とGHQの関係も、この頃にはすっかり冷え切っていた。以後は冷戦の激化も相まって反共の風が吹き荒れ、ついには日本政府主導で大々的なレッド・パージが展開される。

第二章 レッド・パージ:学生運動の組織化と理論化

 占領期の学生運動の起源は、現代の学生が想像するようなもの、すなわち、専ら政治的テーマを扱う民衆運動ではなく、学園民主化運動や授業料値上げに対する反対運動など、むしろ学内のテーマが中心であった[19]。学内に焦点を合わせた学生運動は一見して日米関係という本稿のテーマと関係が浅いように思われる。しかし、五〇年代の学生運動を主導した全日本学生自治会総連合(全学連)の結成は四八年台の教育復興闘争によるものであり、現在の学生運動にも散見される理念的姿勢は後述する大学でのレッド・パージにその淵源があると考えられる。したがって、レッド・パージに至るまでの経過を(GHQ含め)政府側と学生側の二つの視点から概括することは、戦後学生運動について記述する上で有用である。

 占領期初期の学生らの動きに対して、文部省は早くから抑制的な態度をあらわにしている。幣原内閣の前田多門文部大臣は学生に「身分に応じた制約ある行動」を求めたほか、のちに最高裁長官を務める田中耕太郎文部大臣は、学生団体といえども「外部の力」とみなし、学生団体の背後にある左翼勢力が大学の自治を侵害することを警戒していた[20]。片山内閣の森戸文相は「学生自治運動については学生には自ら身分がありその域をこえてはならないから、教授の人事問題にまで干渉するのは行き過ぎである。大学の使命を果すにも学生は学生としての職分がある、もちろん学生団体から希望なり意見を上申して学生の意向を反映するのは大いに結構である」と述べた[21]。また別の機会には「学生の自治ということにも一定の限界がある」とした上で、「学生としての分をあくまでまもってその範囲内においては学生の正しい機能を十分発揮していただきたい」と慎重に語っている[22]。GHQの民間情報教育局(CIE)は学生運動を民主主義の教材として期待していたが、大学の人事への干渉等には消極的な姿勢を示すようになった。例えば、CIEは「学生が自治の実験室から乗り越えて学校行政に不当介入することは排除されねばならぬ」と大学行政への行き過ぎた介入を危惧している[23]

 四八年四月、インフレーションや大学の財政難を理由に国立大学授業料の三倍もの値上げを発表した文部省は、当然ながら学生らの反対運動の標的となった。各地の大学ではデモやストが繰り広げられ、「教育復興闘争」と称された。

 四八年九月、教育復興闘争における全国的な連帯を象徴する組織として、全学連が結成された。初期の全学連は日本共産党から絶大な影響を受けており、執行部は東大や早稲大の共産党細胞から選任され、事務局も東大に置かれた。しかし、両者の思想的背景は必ずしも一致していなかった。日本共産党は学生を小市民として規定していたが、全学連は学生という身分は資本の利害から一定の距離を保ち、真理の探究を職分とするがゆえに、どの階級が社会の進むべき方向を示しうるのかを客観的に判断できる層として位置づけられる、と捉えていた。前者の定義によれば学生運動は反体制運動の傍流にすぎない一方で、後者の定義によれば学生運動は労働運動と同様に反体制運動を主体的に進めうる。学生運動の理論化は初代から行われており、全学連初代委員長の武井昭夫が四八年に提起した「層としての学生運動論」は民衆運動のなかの学生運動の正当性を理論付けるものであり、先駆性理論と並ぶ学生運動の代表的理論として知られた。そして、こうした学生運動観の相違は、初期の全学連と日本共産党の一衣帯水の関係が四九年頃から綻びを見せる遠因となる[24]

 四九年七月、新潟大学開校式において、CIE顧問イールズ(Walter C Eells)は「イールズ声明」を発表した。このイールズ声明はGHQの反共政策の一環でなされたものであり、その内容は「赤い教授」と「スト学生の追放」という、全学連の存在を根底から揺るがすものであった[25][26]。イールズは各地の大学で講演を行い、同趣旨の発言を繰り返し行った。この「大学の自治と学問の自由に対する明らかな干渉」に対しては、学生のみならず教職員の強い政治的危機意識を呼び起こし、必然的にその反発も大きかった。各地の大学で行われた講演のなかには、教職員組合と連携したものもみられた[27]

 五十年初頭には日本共産党の「所感派」と「国際派」の分裂に伴って全学連の組織内で亀裂が生じたこともあったが、同年五月の全学連第四回大会では「反イールズ声明、反帝国主義闘争」の方針を決議し、全学連主導の反イールズ運動は破竹の勢いで活気づき、ついには天野貞祐文相が大学内のレッド・パージを撤回するに至った[28]。レッド・パージがもたらした最大の変化は、戦後初期に見られた「反権力的志向」が、占領軍と日本政府による弾圧を契機として、より明確な政治理論と戦略を伴う運動へと転換した点である。かつて戦後初期の学生運動は、労働運動や共産党の影響下で集団行動として展開されていたが、レッド・パージを受けて国家権力との対立構図が一層明確化し、組織内部での理念的統一が重視されるようになった。さらに、パージによって大学教員や思想家が職を追われたことは、学生に対して強い政治的危機意識を呼び起こし、運動が平和擁護、民主化擁護といった理念的背景を取り込む契機となった。この政治的危機意識は学生だけでなく教職員らも強く意識しており、それは戦前の「大学の自治、学問の自由」に対する干渉およびその結果としての言論統制が当時もなお生きた教訓として記憶に新しかったからであろう。

 反イールズ運動が全国の大学で渦巻く中、全学連は日本共産党との組織的決別に至った。五〇年、コミンフォルムは野坂参三を批判し、日本共産党に対して、より反米・反帝国主義の態度を鮮明にするよう要求した。日本共産党は、これを受け入れるべきと主張する「国際派」と受け入れ難いと主張する「所感派」の勢力に分かれ、論争の末、日本共産党では「所感派」が優勢となった[29]。しかし、全学連を主導した本部の東大共産党細胞は「国際派」を支持しており、この反米・反帝国主義姿勢を強調する「国際派」が全学連内で発言力を高めた結果、前述の「反イールズ声明、反帝国主義闘争」の方針を決議するに至ったのだ。これを以て全学連と日本共産党の乖離は決定的となり、以後少しの間全学連は日本共産党とは距離を置くこととなる。

 戦後初期には、学生運動の要求は学内に関する問題に留まりがちであったが、パージ後は、安保体制や思想統制への反発が広がり、政治的理念に基づく運動が前面化するようになる。この過程で、全学連の組織的基盤はより強固となり、学生運動は全国規模の行動―その態様は必ずしも一様ではなかったが―をとりうる政治主体へと変貌した。さらに、レッド・パージは後続の六〇年安保闘争へと連なる思想的基盤を形成する上で重要な節目であった。すなわち、国家が反共政策を理由に思想と組織を抑圧するという経験は、学生運動にとって「反権力」を規定する強固な論理的根拠となり、運動をより急進化させる動因ともなったのである。

 以上より、レッド・パージは単なる政治的弾圧にとどまらず、学生運動を組織化し、またその理念を理論的に深化させる重要な契機であった。それは、前章と同様、戦後日本の政治構造が冷戦という国際環境の中で再編される過程、「外交—内政」の過程と連動しており、学生運動が国内の若者運動にとどまらず、日米関係の影響下に置かれた政治的主体として成長する基盤を形成したのである。

第三章 六〇年安保闘争にみる外交と学生運動の交錯

 独自路線を歩み始めた全学連だったが、のち五一年には日本共産党はその後武装闘争を党是とし、距離を置いていた全学連もこれに倣う形で学生運動家たちを動員した[30]。全学連の軍事路線は大衆の支持を失う結果を招き、学生運動は下火となった[31]。さらに五五年には、日本共産党が第六回全国協議会(六全協)でこれまでの軍事路線を自己批判するに至り、いよいよ全学連の軍事路線は暗礁に乗り上げた。翌年にはフルシチョフによるスターリン批判、ハンガリー動乱へのソ連軍介入が続き、全学連の学生運動家らは日本共産党およびソ連共産党の正当性に疑義を抱かざるをえなくなった。そして、こうした出来事を機に、全学連は日本共産党と袂を分かち、自律的な運動を可能にする理念や理論を模索する必要性に駆られた。全学連は五五年の日共の方針転換を受けて活動全般が停滞するほどの影響を受けたが、その後の在日米軍立川飛行場を巡る砂川闘争への参加を通じて学生運動を再び活性化させた。だがしかし、全学連が学生運動においてその存在感を回復させると同時に分裂も生じ、五八年、日本共産党との対立姿勢をあらわにした、より急進的なブント(共産主義者同盟)が誕生した。

 六〇年安保闘争はこうした学生団体の動向とも無関係ではなかった。五二年締結の旧安保条約の改定にむけ、岸内閣は五八年に警察による操作や犯罪の予防にかかわる権限の拡大を盛り込んだ警察官等職務執行法(警職法)の改正法案を国会に提出した。これに反対して全国的な反対運動が各地で展開され、改正法案に対する野党や自民党内部の反対もあった結果、改正法案の成立は見送られた。これを受け、全学連書記長島成郎は日本共産党との決別と新党結成への意思を明らかにし、ブントの創立大会を行った。ブントの運動理論はいわゆる「先駆性理論」と呼ばれ、生活基盤が脆弱な学生に社会変革を牽引する運動家としての本質を見出した理論であった[32]。全学連を通じて学生運動における覇権を握り、同時に六〇年安保闘争にも取り組んだのがブントの運動の方針と戦略だった。

 六〇年安保改定をめぐる米国の対応は、冷戦下における対日安全保障政策の再構築という広範な戦略的枠組みの中に位置づけられる。米国は一九五〇年代後半、ソ連の核戦力増強および中国の台頭を背景とし、極東地域における軍事的プレゼンスの長期安定化を最優先課題としていた。こうした事情において、六〇年の旧安保条約の改定は、単なる条約の刷新ではなく、双務的義務の付与と基地使用権の法的安定化を主眼とした制度的再編として位置づけられた。米国政府は、改定交渉に積極姿勢を示した岸内閣との間で交渉過程全体にわたり綿密な連絡調整を行った[33]

 六〇年安保闘争は、戦後日本において外交政策と国内政治運動が最も鋭く噛み合った出来事であった。こうした国際的要請と国内的民主化の高揚が正面から衝突した結果として、六〇年安保闘争は爆発的な全国的社会運動となった。学生運動は、この政治過程の中で決定的な役割を担った。全学連は戦後初期に形成された「反権力」「反軍事化」の理念を継承し、蜜月の関係であった日本共産党との決別を経験しながらも学生運動における覇権を握り続け、安保改定を日本の民主主義を脅かすものと位置づけた。なかでも、日本共産党と敵対的とすら言えるブントの誕生は六〇年以後の学生運動にも少なくない影響を与えるものであった。

 一方で、政府は米国との同盟深化を外交的最優先事項とし、国内の反対運動を知りつつ強行採決に踏み切った。この政治判断は、米国の対日要求を背景とする外圧に大きく規定されていた[34]。繰り返し述べた通り、安保改定は単なる条約問題ではなく、日本の外交的選択が国内社会の民主主義とどのように整合するのかという構造的問題を浮き彫りにしたのである。

 以上より、六〇年安保闘争は、戦後日本における「外交—内政連関」の典型事例として位置づけられる。すなわち、国際政治における政治力学が国内の政治運動を誘発し、学生運動が政府の外交政策の正当性に一石を投じるという一連の流れである。この相互作用は、以後の日本政治において長期にわたり影響を及ぼし、七〇年安保やその後の新左翼運動にも思想的・組織的な教訓を残した。

結論

 本稿は、戦後日本における外交・内政・学生運動の連関を、逆コース、レッド・パージ、六〇年安保闘争を軸に検討した。その結果、次の三点が主要な素因として確認できた。

 第一に、冷戦構造の深まりを背景とした米国の対日政策の転換が、日本の国政に外的圧力として作用したことである。

 第二に、日本政府が対米関係の維持を優先する傾向にあったため、警職法改正などの国内の治安政策や大学行政への介入を通じた学生運動への対応が外交的要請の影響を受ける構造が生じていたことである。

 第三に、学生という層がこうした外交・内政の変動に対して鋭敏に反映し、抗議行動として可視化する政治主体となったことである。

 以上を総合すれば、日本の戦後民主主義においては、米国の戦略的要請―日本政府の政策判断―学生運動の反応が相互に連鎖する構図が形成されており、この三者の力学こそが戦後学生運動を特徴づけた主要因であったと結論できる。

これらの事例を通じて明らかになったのは、学生運動が単なる国内の若者運動ではなく、常に日米関係という広い枠組みによって影響を受け、また一定の形でそれに反応する主体であったという点である。すなわち、戦後日本の政治的動向は、外圧と国内の社会変化の相互作用の中にこそその特徴があり、学生運動もまたその例外ではなかったと結論づけられる。

今後の研究課題としては、六〇年以降の運動の多様化や組織形態の変容、さらには七〇年安保期における「日米関係との直接的連動の希薄化」が意味するものを精査する必要がある。あるいは、対米関係における外的圧力の詳細についてもより具体化することも有用であろう。本稿で扱った時期は、その後の学生運動の分岐点、現在の学生運動の淵源を理解するための基盤をなすものであり、戦後日本の政治史を捉える上で依然として重要な意義を持ち続けるであろう。

参考文献

小西德應ほか『戦後日本政治の変遷 ―史料と基礎知識―』北樹出版、2020年。

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武井昭夫『層としての学生運動 : 全学連創成期の思想と行動』スペース伽耶、2005年。

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ハワード・B・ショーンバーガー(宮崎章訳)『占領1945-1952 ―戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人―』時事通信社、1994年。


[1]

[2] 「降伏後に於ける米国の初期の対日方針(「初期対日方針」)」外務省特別資料部編『日本占領及び管理重要文書集』東京経済新報社、1巻、1991年。

[3] H.E.ワイルズほか『東京旋風 : これが占領軍だった』時事通信社、1954年。

[4] 歴史学研究会編『日本同時代史1 敗戦と占領』青木書店、1990年、307頁。

[5] 「The Requirements of Reconstruction」University of California San Diego、The Requirements of Reconstruction、2025年11月15日閲覧。

[6] 「ロイヤル陸軍長官演説(1948年1月6日)」大嶽秀夫編・解説『戦後日本防衛問題資料集 第一巻 非軍事化から再軍備へ』三一書房、1991年、193-197頁。

[7] 岩波書店編集部編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年、366頁。

[8] 「20世紀日本人名事典 『ホイットニーコートニー』の解説」コトバンク、ホイットニーコートニーとは? 意味や使い方 – コトバンク、2025年11月18日閲覧。

[9] 升味準之輔『戦後政治 1945-55年 上巻』東京大学出版会、1983年、255頁。

[10] 小西德應ほか編『戦後日本政治の変遷 史料と基礎知識』北樹出版、2020年、32頁。

[11] 細谷千博ほか『日米関係資料集1945〜97』東京大学出版会、1999年、55-58頁。

[12] 有馬哲夫『日本テレビとCIA』宝島社、2011年、119-131頁。

[13] 中西寛「敗戦国の外交戦略-吉田茂の外交とその継承者」石津朋之、ウィリアムソン・マーレー編『日米戦路思想史-日米関係の新しい視点』彩流社、2005年、122-135頁。

[14] 西川佳秀「第3回 戦後日本の歩みと吉田茂の功罪—吉田茂は「宰相」の名に値するか—」平和政策研究所、第3回 戦後日本の歩みと吉田茂の功罪 —吉田茂は「宰相」の名に値するか | 一般社団法人平和政策研究所、2025年11月18日閲覧。

[15] 塩田庄兵衛「戦後日本の統一戦線運動」『立命館経済学』立命館大学経済学会編、35巻1号、1986年、6頁。

[16] 兵頭淳史「産別会議の組織と運動–研究史整理と通史再構成の試み」『大原社会問題研究所雑誌』法政大学大原社会問題研究所編、496号、2000年、20頁。 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I5286261

[17]「日本ニュース戦後編第50号(昭和21年)『全国に倒閣の嵐』」NHKアーカイブス、全国に倒閣の嵐|時代|NHKアーカイブス、2025年11月16日閲覧。

[18] 「マッカーサーのゼネスト中止命令」法政大学大阿原社会問題研究所編『日本労働運動資料集成』第2巻(1947-1949年)、旬報社、2007年。

[19] 田中敦子「占領下の学生自治会と学生運動」六花出版、2025年、82頁。

[20] 同書、75頁。

[21] 「京大夜間部実現へ 学生には「自治の限度」を 森戸文相京で語る」『京都新聞』1947年12月5日。

[22] 「森戸文相入洛す 京大と同志社で一問一答」『学園新聞』1947年12月15日。

[23] 菅孝行『For Beginners 全学連』現代書館、1982年、29-32頁。

[24] 高木正幸『全学連と全共闘』講談社、1985年、23-39頁。

[25] 同書、42-49頁。

[26] 「赤い教授除外せよ イールス博士 許されぬ学生スト」『朝日新聞』1949年7月20日。

[27] 田中敦子、前掲書、119頁。

[28] 高木正幸、前掲書、15-22頁。

[29] 小西德應ほか、前掲書、38頁。

[30] 猿谷弘江『六〇年安保闘争と知識人・学生・労働者 ―社会運動の歴史社会学―』新曜社、2021年、160頁。

[31] 社会問題研究会『全学連各派:学生運動事典』芳文社、1969年、23-26頁。

[32] 猿谷弘江、前掲書、172頁。

[33] 小西德應ほか、前掲書、59頁。

[34] 小西德應ほか、前掲書、同頁。

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