前内閣総理大臣・石破茂氏インタビュー

石破茂

衆議院議員、第102・103代内閣総理大臣、第28代自由民主党総裁

1957年2月4日、東京都生まれ。慶応義塾高等学校を経て、1979年3月、慶応義塾大学法学部法律学科卒業。同年三井銀行(現三井住友銀行)入社。1986年衆議院議員初当選(旧鳥取全県区)。1993年新進党入党。1997年自民党復党。農水相、防衛相、政調会長、幹事長など歴任。2024年9月27日、第28代自由民主党総裁に選出。同年10月1日~2025年10月21日、第102・103代内閣総理大臣。衆院13回(鳥取1区)。著書に『異論正論』『日本列島創生論』『保守政治家 わが政策、わが天命』など。

写真:2025年11月28日 議員会館にて窪田撮影

窪田「石破先生の母方の曽祖父にあたる金森通倫は、我々が通う同志社の草創期メンバーであり、校祖・新島襄が牧師として最初に授洗した信徒第一号でもあります。1889(明治22)年には同志社校長代理に抜擢されるなど、150年に及ぶ同志社の礎を作った人物の一人ですが、先生のご家族の中で金森通倫はどのように語り継がれていますか」

石破「そうだな、変わった人だったらしいよ。こんな本があんだよな。なんかようわからんけど。同志社でどういう風に語られているが知らないが、熊本から出てきて弟子入りをして、草創期のメンバーだよな。キリスト教の影響を強く受けて、もちろんこの人も牧師だったし、日本におけるキリスト教の草分けのような、もちろんその前の隠れキリシタンの時代もあるんだけど。で、新島襄の後継者になっていたんだよな。新島襄死ぬときに金森通倫くんは弁もたつ、才能もある、しかし人徳に欠けると。自分の後継者にしてはならんと遺言みたいなね、行ったそうだ。まあそれでもなったらしいんだけどね。ほんとに短い間だったらしいね、同志社の総長代理ってのはね。で、その後色んなキリスト教の教会の牧師になって、その後はアメリカのキリスト教は間違ってるなぞといってアメリカに行って英語でキリスト教を広めて、でその後ヨーロッパに渡り、日本に帰ってきて自由党なんぞというところに入って、自由民権運動をやっとったんだろうね。で自由新聞という機関誌の主筆かなんかやってた。で、今度は何をやったかっていうと、救世軍って知ってる?君たち」

窪田「聞いたことあります」

石破「軍隊の組織でね、司令官とかいろんなのがいて、歳末になると募金をして街角に立つというそういう救世軍の運動に参加をして、最後は神奈川県に葉山というところがある。そこに洞窟を掘って暮らしとったという、なんかよく分からん人だ」

一同 笑いに包まれる

石破「ただその長男である母方の祖父はこんな人生はよくないんじゃねえかということでちゃんと東京大学に入り、内務省に入り、役人になり徳島県の知事とか山形県の知事とかにやっとったらしい。その時に若い課長として内務省から派遣されてやってきたのがうちの父で、それと、当時の山形県知事の金森太郎さんの長女である私の母親が結婚して私がいる、とまあそんな話だな。だから非常にこう、破天荒な人だったらしいね、型破りな人だったらしいね。で、だからその金森通倫って人をわが一族があがめている訳ではない。ただそういう人がいたということはわが一族はみんな知っている。母方のね。だから非常にその、なだろうな、破天荒な、型破りな人だったと聞いていますがね」

窪田「シンガポールのリー・クアンユー上級相(初代首相)が防衛庁長官時代の石破先生を私邸に呼び、旧日本軍のシンガポール統治時代の実態を問うた際に、「日本人が忘れてもシンガポール人は決して忘れない」と指摘されたと伺っております。私の曽祖父も日中戦争に陸軍歩兵少尉として従軍し、小隊の指揮を執るなど、中国大陸諸都市の占領を実施する中枢にいました。戦争にはそれぞれの立場が存在し、多層的な記憶が存在して然りだと考えています。そこで、日本にとって「不都合な歴史」や「目を背けたくなる歴史」も含めて一つの「歴史」を語る重要性について先生のお考えをお聞かせください」

石破「だから、戦前の日本と戦後の日本は分断されているわけじゃないんだよね。国家として継続しているわけでね。で、ドイツとナチスドイツって分断されているんですよ。ヒットラーが自決をしてデーニッツって人が首班となって政権を取ったんだけど連合国はそれを政府として認めなかったからね。ドイツって国は連続性が無いんだよね。だからドイツに行ったら、ナチスドイツはみんな悪いんだって話になっとるわけで。日本はこう、大日本帝国憲法の改正手続きを踏んで日本国憲法ができているようにね、国家として連続しているわけですよ。だから戦前に日本が色々とアジアでやったことに我々自身がやったわけではないから、我々が責任取るとか謝罪をするとか、そういうことにはならないんだが、国家として連続している以上は日本がアジアで何をしたのかということについて記憶を伝承することは必要なことではないんだろうかな。だからその、リー・クアンユーが、今から23年くらい前かな、私が防衛庁長官で、シンガポールで、毎年やってんだけどね、シャングリラダイアローグってのは。世界国防大臣会議みたいなもんだな。45歳だった私はその時初めて行った。で、リー・クアンユー上級大臣が、その時首相は引いててね、息子さんのリー・シェンロンって人が首相やってた、その上の上級大臣ってのをやっていたけど。リー・クアンユーさんが会いたいと言っている。なんで私が呼ばれたんだろうなと思ってよくわかんなかったけど、行ったんだよね。そうすると、それ今あなた(=窪田)が言ったようにさ、日本がシンガポールで戦争中に何をしたのか、君が知っていることを言ってみなさい、みたいな。で、教科書に書いてあるだけの知識は一応あったからね。昭南島、昭和の昭に東西南北の南、昭南島と名付けてシンガポールを。そこに東南アジアのいわゆる占領地統治の拠点を置いてね、昭南神社っていう神社を建ててね、そんなことしていたと教科書には書いてありますと、君が知っているのはそれだけかね、と。そう教科書で習いました、と。いやだからね、日本がシンガポールに大戦中何をしたかと、いうことをきちんと知らないと日本とシンガポールの友好なんてできないよと、いうことだった。私は当時当選5回だったが、図書館で調べてもほとんど資料がなかったんだよね。で、その後ですよ色んな史料が出るようになったのはね。だからその、シンガポールで何があったのか、インドネシアで何があったのか、フィリピンで何があったのか、今でいうミャンマー、昔でいうビルマで何があったのか、もちろん中国、日本の領土であった台湾、あるいは朝鮮、当時は大韓帝国と言っていたね、それが併合で日本になるわけだが。それぞれの国にそれぞれの歴史があるわけで、少なくとも彼らはそれを、記憶をずっと伝承している。我々はしていない。その差は大きくないですかね。だから日本が非常に経済的に発展をし、1990年代は世界のGDPの2割を日本は持っていたわけでね、中国よりもはるかにGDPは大きかったわけで、それは経済力があり、人口も増えていた当時の日本と今の日本は違うんでね。当時の日本ならいいというわけではないが、やはり日本の経済力の前に、アジアの諸国って意外と日本の主張受け入れてたとこあるんだけど、今やそれもないわけで。そうするとこれから先の日本ってのはいかにしてアジアと共生していくかってのは非常に大事なことでね、そういう時に全く80年も前のことさっていうことで、日本とアジアの歴史を全然知らないってことは決して日本のためにもならんわね、そういうことじゃないですか」

窪田「石破先生が当選された1986年(第38回衆議院議員選挙)の国会は野中広務氏・村山富市氏・後藤田正晴氏と戦前生まれの(私から見ると良識的な)議員が多かった時代と考えています。今の国会には6人しか戦前生まれはいません」

石破「6人もいるんだ」

窪田「この世代的変化を感じる瞬間や、それに伴う永田町の変化はありましたか」

石破「田中角榮先生が、あの戦争に行ったやつがこの国の中心にいる間はこの国は大丈夫なんだ、と。あの戦争に行ったやつが日本の中心からいなくなったときは怖いぞ、と。だからよく勉強しろ、と我々によくおっしゃっておられた。角榮先生はね、日中戦争に従軍しておられたからね。で、昭和20年に15歳で兵隊に行った人がもう今年95だわな。戦前生まれの人もほとんどいなくなったし、実際に戦争に行った人なんてもうほとんどいないんじゃないかな。我々が当選した時の総理大臣は中曽根康弘さん、彼は海軍主計中尉だったかな。その後の竹下登さんは陸軍の飛行機の教官だったよね。そうやって、実際に戦争に行った人、兵隊として戦争に参加した人はいたんだよね。自民党の会議でも陸軍士官学校出た人とか、海軍兵学校出た人結構いましたよ。今や本当に6人しか戦前生まれがいないってことは実際は戦争に行った人誰もいないだろうね。だから、その記憶が伝承されているかっていうとほとんどされていないような気がします。私の父親も内務官僚だったが、戦争中は占領地行政をインドネシアのスマトラでやっていた。だけど戦争のことは何も私には教えてくれなかった。だから、記憶の伝承がほとんどされていないってことは恐ろしいことで、角榮先生が言っておられた、あの戦争に行ったやつがいなくなった、そういう時代に入ったわけで、そうであれば我々は教えてくれる人がいないんだから、それこそ歴史の勉強しないとどうにもならんわね。それはよっぽど能動的にやらないと、今すぐ役に立たないからね、歴史の知識なんて。だけどそれをやるってのはすごく大事なことじゃないかな」

窪田「石破先生と私たちは同じ「戦後世代」だと思いますが、先生があそこまで「戦後80年所感」の発出や斎藤隆夫議員の反軍演説議事録の復活にこだわった理由はなんですか」

石破「それはやっぱり角榮先生の言葉がすごく印象にあったのと、私が防衛庁長官、小泉内閣で、やってた最後の頃ね、石破さん猪瀬直樹さんの書いた『昭和16年夏の敗戦』って読んだことあるかって言われて、読んだこと無かったんだよね、私ね。読みましたよ。あれはもう非常に衝撃だったね。昭和16年、大日本帝国はアメリカと戦争したらどうなるかってことを徹底的に検証するために総力戦研究所という組織を作った。そこはありとあらゆる役所、大蔵省であり内務省であり、農商務省であり逓信省であり、ありとあらゆる役所の30代の最もできる人間、陸軍・海軍の30代の最もできる人間、日本銀行も同盟通信も30代のもっともできる人間が参加して、今でいうシミュレーションやったわけですね。8月15日NHKはテレビドラマをやってたよ。観たことある?オンデマンドであれば観れるよ。猪瀬さんの『昭和16年夏の敗戦』って読んだことある?」

窪田「はい、僕はあります」

石破「そう、中公文庫で出とるわな。要するにその、昭和16年の夏にありとあらゆる資料を開示をして、日本とアメリカが今でいうGDPが10倍違うとかね、鉱工業生産量が8倍違うとかね、自動車の生産台数が100倍違うとかね。そういうあらゆるデータを開示をして、日本とアメリカが戦争をしたらどうなるか、というシミュレーションをしました。昭和16年に。夏に結論出ました。絶対勝てない、何やっても勝てない。どんな理由があってもこの戦争やるべきではない、と。で、それを当時の近衛文麿首相、東條英機陸軍大臣はじめ時の内閣の前で発表するんだな。しかしその時に東條英機が、君らの研究は立派だが、偶然の要素が欠けている、昔から言うように戦は時の運なのだ、みたいなことでね、その研究は結局かえりみられることはなく、軍も政府も上層部はこの戦争をやっても勝てないということを知っていたにもかかわらずあの戦争になったのはなぜなんだ、という想いがずっとあるんだよね。また角榮先生がそのように言っておられたと。またうちの父親は内務官僚で、ものすごいリベラリストで、ナチスドイツが大嫌いだった。あるいは戦後、建設省という役所のトップになったが、建設事務次官ってね、その時に部下が色んな大臣の挨拶文なんかを起案して、持ってくる、その書き出しは常に終戦ここ20年、とか。お前たち終戦なんぞと言うからダメなんだ、あれは敗戦なのだ、と。戦争に負けたということをきちんと認めないとこの国はだめになるぞ、というような父親を持っていた。角榮先生からそんな教えを受けていた。猪瀬さんの本を読んだ。で、たぶん今終戦後というか敗戦後というか、80年。あと10年経って90年になると、ほんとに戦争を知っている人はいなくなるね、この国から。だから今が最後だろう、と。で、もう安倍談話の70年でアジアに対する謝罪は済んでいるわけだよね。それは引き継ぐんだと。だけど、なぜこの国は負けるとわかっている戦争に突っ込んだのか、なぜなんの情報も与えられなかった人たちが300万人も死んでいったのか、その時にぎかいは何をしていたのか、政府は何をしていたのか、メディアは何をしていたのかということは80年の節目に検証する責任があると思ったのでね、そういうことです」

窪田「石破先生が「戦後80年所感」で述べられていた、元老政治、統帥権干犯問題、美濃部達吉の天皇機関説問題と総括して「政府は軍部に対する統制を失っていきます」とおっしゃっていました。しかし、今の日本には軍部なき右旋回が起こっていると私は考えます。この右旋回は最後、日本に何をもたらし、一時的なものになるのかどうか石破先生の考えをお聞かせください」

石破「政府はなにをしていた、議会はなにをした、メディアはなにをしていたということを検証するために80年談話ってのは出したんだよね。で、それは大日本帝国憲法の時代に主権者は天皇であらせられたが、同時に天皇無答責、天皇は神であるので責任は問えないということだった。じゃあ誰なんだ、責任者は、ということはわからないんだよね。で、そういう責任者不在の体制の中で役割を果たしていたのは元老という人たち、山縣有朋とかね西園寺公望とか。その最後の元老の西園寺公望が昭和15年に死ぬわけで、そうすると調整役がいなくなっちゃった、ということになって無責任体制が顕在化しちゃったんだよね。で、そういう時になると、どうなるかって言うと、非常に勇ましい意見、大きな声で主張される意見、そういうものがどうもまかり通るらしいんだな。だから東條英機が人間たまには清水の舞台から飛び降りることが必要だ、とかね。あるいは戦うも亡国、国が亡びる、戦わないのも亡国、でも戦わないで滅びるのは日本人の魂まで滅ぼす本当の亡国だ、とかね。そういう精神論が通っていくんだよね。そしてそういう勇ましいお話っていうのはみんな気分が高まるからね、それにまたメディアも迎合して勇ましい話が十分売れたからね。全部のメディアが戦争を煽る。政治は勇ましい議論が通っていく。議会も、斎藤隆夫が反軍演説といわれる演説をしても除名になる。議事録は削除されるっていう、だから政府もメディアも議会も、戦争へ向かって突き進んで行って誰も止めなかった。じゃあ今の時代はどうなんだ。軍隊なき右旋回ってのが正しいかどうか知らないが、自衛隊は軍隊と認めていない。あれはじゃあ一体なんなんだ。世界有数の軍事費を使ってだね、世界有数の陸海空の装備を持ってだよ、じゃああれを軍隊じゃありませんと言ったらなんなんだいみたいな、ようわからんのよ。で、文民統制ということになっているが、本当に例えば制服を着た自衛官は国会で全く答弁しない、でそれで議会によるコントロールってできてるのか、私はそれはできてるとは思わないね。で、また軍事的知識が全くない防衛大臣ってのが時々登場する。大丈夫か、これ。で、メディアも特にSNSってのが登場して一方的な議論ってのが多いよね。で、君らはどうか知らないが、本読まなくなったね。新聞読まなくなったね。色んな意見に接しなくなったね。で、アルゴリズムが、なんていうのかな、どうしても自分に気に入る意見ばっかり出てくるようになるよね。そうすると知識が偏る。で、やっぱ本の良いところは何度も読める。で、これだと何度も読めないんだよね、どうしてもね。だからその、言論も危ない、議会も危ない、政府も危ないことがある。で、そもそも自衛隊ってのはなんだかよくわからない。それは怖くないですかね。だから、あなた方の先輩になるんだろうけど保阪正康さんってのは同志社で。保阪さんの書いた本読んでみるといいですよ」

窪田「最後に、私たち若い世代に向けてメッセージをお願いします」

石破「私も昭和32年でさ、一応大学まで出とるんだよな。だけど小学校でも中学校でも高校でも歴史の授業って日露戦争で終わったよね。特になぜ戦争になったかっていうことは全く習わなかった。我々はね。あなた方習ったか?」

一同「ある程度は習いました」

石破「ならいいけどね。なぜ戦争になってしまったのか、なぜ300万人も死んでいったのか、なぜなったか、なぜもっと早く終わらせられなかったのか、東京も名古屋も大阪も、京都だけは焼かれなかったからね。東京も名古屋も大阪も神戸も福岡もあるいは静岡とかそういう中小都市もみんな空襲に遭い、長崎も広島も原爆が落ちてなんで300万人も死んでいったんだろう、ということは本当に徹底的に検証しないと同じ事が起こると思うね。だけども、それは戦争反対って言ってそればっかり言ったら戦争無くなるかって言ったらそんなことは無いんでね。やっぱりその、私は議員になって初めていろんなことを知ったんだけども、それはたまたま議員になったから知ったんで、やっぱり学生さんにしてもビジネスマンにしても主婦にしても、みんな日々の暮らしに忙しくて、なかなかなぜ戦争になったかとか、そういうことを考える余裕はないんだよね。で、大学生の間ってのは本当にこう、時間が有り余るほどあってだな、で、私は慶応なんだけど、昨日も慶応の塾長と対談してて、やはりその大学って、必要だと思えばいろんな知識が身に着く、そういう環境にあるし、時間もあるし、立派な先生もいるし。遊ぼうと思えばでもいくらでも遊べるし。普通にやっていれば大学卒業位できるからね。だけど2度と返ってこないんだよ。大学の4年間ってのはね。だからここをどう使うかだよね。だから、我々慶応もそうだし、同志社もそうだろう、関西学院もそうかもしれない、早稲田もそうかもしれない。いわゆるさ、ブランド学校に入って、それだけがステータスだと思うのめちゃくちゃもったいないね。だからよく勉強した方がいいと思う、と自分の反省も込めて俺はそう思う。もっと勉強しとけばよかった。深く反省。やっぱね、学生の時ってね、理解力あるからね。俺も大学時代の時の教科書読んでてさ、なんで俺はこんなものが分かったんだろうと思った。あなた方法律学科の学生いる?」

窪田「彼(=田島)は政治学科です」

石破「あなた(=荻原)は何?」

荻原「私は日本文学をやっています」

石破「何を研究しとるの?」

荻原「江戸時代の文学、古典作品をやってます」

石破「難しいものやってるね」

石破「あなた(=窪田)は何?」

窪田「僕は近代史です」

石破「あぁ、近代史ね、それはいいなぁ」

石破「あなた(=畑田)は?」

畑田「私は歴史地理学というものを、彼(=窪田)と同じゼミでやっています」

石破「そうね、俺は法律学科だったけどね、まだ教科書は残ってるけどねぇ(教科書を取りに戻る)」

石破「(教科書を見せながら)これ大学1年の時の教科書ね。で、ネットがあまり好きじゃないのは線が引けないからね」

窪田「僕も線を引きながら本を読むのが好きです」

石破「まあ昭和50年に買った本ですわな。私が大学1年の時だからねぇ。だけど、今でも読み返しますよ。どうだったかねぇ、なんつって。だけど読み返してるとね、なんで俺はこんなことが分かんだろうって、思うよね。やっぱりその、学生の時って本当に読解力っていうの、そういうのがあるから、おんなじ本読んでも理解度が違うんだよね、我々の年代と。だから本読むなら今、勉強するなら今だと思うよ。でさ、国立大学と違って私学ってそれなりに授業料高いからね、だから元取らないともったいないんだよ。だから、私は大学出たときにまだ両親生きてたから、大学まで出してもらってありがとうございましたって手をついてお礼を言った覚えがある。やっぱりせっかく授業料親が払ってくれてるんで、まあもちろんバイトして稼ぐ人もいっぱいいるけどね。やっぱ元は取らないともったいねえよな。で、いやいいんだよ、その、で今さ大学生酒飲まないだろ」

窪田「飲まないですね…」

石破「(笑みを浮かべて)つまんねえなあ…」

一同、笑いに包まれる

石破「あの頃はよく飲んでたけどねえ。だからこう、早稲田と慶応の野球試合、春と秋にあるんだよね、早慶戦っていってね。前の晩は徹夜して飲んでたしね。慶応が勝とうが負けようが、早稲田の連中は新宿で、我々は生意気にも銀座で飲んでて、先輩が大体奢ってくれたからねえ、会社に入ってる先輩がねえ。まあよく飲んだ、楽しかった。で、そういうのもあんだけどさ、そういうのも学生の時だけ、できないからね。だけど勉強も学生の時じゃないとできないから。悪いことは言わん、勉強した方がいい」

窪田「肝に銘じます。ありがとうございました」