【個人論文A】戦間期イギリスの対日政策─妥協と失敗、その代償─

法学部法律学科 山田敦士

はじめに

 第一次世界大戦の戦後処理について話し合われたヴェルサイユ条約で、イギリスは幾つかの新たな植民地(委任統治領も含む)を獲得した。これにより、イギリスは地表の二四%を支配するようになり、その版図を最大とした[i]。また、この条約で敵国のドイツは途方もない額の賠償金を課せられ、軍備を大幅に制限された。潜在的な脅威とも考えられたロシアは、革命による内戦で荒廃し、大国ではなくなった。史上最大の帝国となり、さらに敵国の衰退によって名実ともに絶頂期に入ったかに思われたイギリスであったが、さらなる困難が待ち受けていた。内では、大戦による莫大な債務があった。外では、本国と同じ白色人種が支配する自治領(ドミニオン)が大戦により発言力を高め、自立を模索し始めた。さらに、植民地でも独立運動が高まりを見せ始めた。これら内外の問題は債務による財政難のせいで、あまり外国に対して強く出ることができないという形で繋がった。つまり、帝国は明らかに「拡張しすぎ」ていた。帝国の減退が国際的地位に大きく影響することは明らかであり、帝国を捨てるという選択肢はありえなかった。したがって、戦間期におけるイギリス外交の主要テーマは、この帝国を「いかに安く守るか」、に絞られると言えるだろう。

 そして、本稿では極東に焦点を当てたい。当時の極東には日本という大国が存在し、かつての大国である中国への進出を目論んでいた。その中国は幾つかの勢力に分裂しており、常に混乱していた。イギリスは、その中国に利権を持つヨーロッパ最大の国家(他にもフランスが挙げられるが、彼らの本拠地はインドシナにあった)であり、その中心は上海にあった。この利権を守ることがイギリスの極東政策の目的であったが、イギリスは前述の財政状況のために極東地域に軍を常駐させることは難しく、大国の日本と協力(または妥協)し、これを維持しようとした。当初はうまく日本との対立を避けることに成功していたが、日本は次第に中国への野心をむき出しにし、イギリスの権益は危機にさらされる。そして日中戦争によって両国の決裂は決定的となる。この過程を詳細に辿り、対日政策について検討することを本稿の目的とする。また、写真は全てGetty imagesから引用した。

第一章 ワシントン会議

 第一次世界大戦の戦後処理が行われたパリ講和会議では、極東地域について何ら決まらなかった。その極東地域について話し合うために、一九二一年十一月からワシントン会議が開催された(写真A:イギリス代表団)。

写真A

 このワシントン会議における最大の出来事は日英同盟の破棄であろう。この同盟については、そもそも失効が迫っており、これを延長するかどうかを決める必要があった。この同盟は、一五年間も続いた同盟であり、双方にメリットのある同盟であった。イギリスは遠い極東で同盟国を持つことでドイツやロシアから権益を守り、極東から艦船を呼び戻すことができるようになった。そして日本は、イギリスを味方につけた状態でロシアを相手にすることができた。しかし、第一次世界大戦を経て、この同盟は低調なものとなってしまった。この理由については、①敵国の不在②第一次世界大戦時の日本の行動③自治領諸国の反対④アメリカの反対、の四つに分けることができる。①については、第一次世界大戦とヴェルサイユ条約でドイツは叩きのめされた。ロシアは革命の後遺症に苦しみ、もはや大国ではなかった。同盟締結の理由であった二つの敵国が存在しなくなっていたのである。②については、イギリスは主に第一次世界大戦中に、日本が必ずしも対独戦争に積極的でなかったと批判していた。しかしこの批判については、非常に限定的であることに留意する必要がある。実際、戦後になるとイギリスはこの同盟の有効性を認めている。③については、自治領諸国、特にカナダ・オーストラリア・ニュージーランドの反対があった。カナダはアメリカと国境を接していることから本国とアメリカの対立(④)を嫌っていた。カナダによれば、日英同盟は「時代遅れ」であった[ii]。オーストラリア・ニュージーランドは、日本が太平洋に進出しようとしているのではないかと疑っていた[iii]。④については、これが最も決定的であると見なすことができる。中国に対する二一箇条要求は、日本の中国に対する野心をむき出しにしたものとしてアメリカは衝撃を受けた[iv]。この頃からアメリカは中国寄りの姿勢を示していた。彼らは、日英同盟を日本の中国進出を援護するものでしかないとして批判していた。以上の①~④の理由(②に関しては一時的に不満があったという程度である)によって、同盟は終わりを迎えたのであった。この同盟の代わりに四ヵ国条約という条約が締結されたが、日英同盟に代わるものでないことは明らかだった。日英同盟の破棄は、イギリスは日本という長年の同盟国よりもまず自治領を重視するという、よく考えれば当然とも考えられる原則を明らかにした。自治領については、これを軽視すればイギリス帝国自体が瓦解することは十分に考えられた。そして破棄の最も大きな原因となったアメリカに関しては、大戦による多額の借金を抱えるイギリスにとってアメリカを怒らせることだけは避けなければならなかった。しかし、イギリス政府内には、アメリカ重視の姿勢に反感を持つ者がいたことも事実である。そうした者たちは、アメリカは信用できるのか不安に思っていた[v]。実際に、アメリカはフィリピンやハワイを足掛かりとした太平洋の支配を目論んでいたし、アメリカ海軍内にはイギリス海軍を敵視する勢力が存在した。それに、彼らはヨーロッパの帝国主義的価値観にも反感を持っていた(彼らは米墨戦争や米西戦争を忘れていたようである)。英米間にこうした不信感があったとしても、先に述べたようにアメリカに反対することは事実上不可能であった。日本側もそのことを了解していたようで、会議に参加した幣原喜重郎は同盟存続の可能性について「諦観」していたという[vi]。さらに、この同盟破棄が将来に深い禍根を残したことも見逃せない。日本側は同盟破棄を悲しみと共に受け止め、そして後述の軍縮も相まって軍部は反発をも覚えた[vii]。その後日本海軍内に「艦隊派」と呼ばれる対英米強硬派閥が形成されたことはよく知られている。

 同盟破棄のほかに、軍縮も行われた。アメリカとイギリスは対等の主力艦を保有し、日本は二ヵ国よりも劣勢となることに同意した(アメリカ五、イギリス五、日本三)。この劣勢を補填するために、西太平洋地域の島々の基地化停止が定められた。

 このワシントン会議で、極東に「ワシントン体制」という新体制が構築されたと考えられているが、近年、当時のイギリス側には、新体制構築の意図は無かったのではないかとも言われている[viii]。しかし、国際連盟という新体制(新秩序とも言える)がヨーロッパに形成されたとして、極東地域に新体制形成の試みが一切されなかったというのは少々無理があるように思われる。仮にイギリスにその気がなかったとしても、実際に新体制は構築されたのである。また、著名な研究者であるクリストファー・ソーンによれば、ワシントン条約は帝国主義列強間の関係を規制しようとしたものであった[ix]。日本側に前述のような不満が残ったとしても、帝国主義に起因する衝突を避けるためには国家間の利害の調整は不可欠だった。こうした考えは日英米で一致しており、だからこの条約は締結されたのであった。しかし、国際連盟にアメリカの不在という欠陥があったように、この条約にも幾つかの欠陥が存在した。その中でも最大のそれは日本に不満が残ったことである(他には中国とソ連が無視されていたことが挙げられる)。前述のように日本軍内部に対英米強硬派の派閥を生み出した。この派閥に属し、または共感する人々が、イギリスがアメリカの顔色をうかがった結果、日本が見捨てられたのだと考えたであろうことは容易に想像できる。ワシントン体制は、日本がこうした不満(不満を持つ勢力)を抑えて協調的であることによってのみ維持される、非常に脆いものであった。こうした状態では、いつか破綻を迎えることは明白であったと言えるだろう。

第二章 ワシントン以降の一九二〇年代

 本章では、ワシントン条約締結後から満州事変勃発までの主に一九二〇年代の極東情勢について扱う。まずイギリスの基本方針について検討し、その後Ⅰ・Ⅱで個別の事案について考えたい。

 イギリス政府は当時、イギリスは今後一〇年間大きな戦争に巻き込まれることはないであろうという「一〇年ルール(一〇年間原則)」を基本方針としていた。これは一九一九年にロイド・ジョージが提唱したものであり、一九三二年の第一次上海事変で破棄されるまで延長されることになる。このルールが制定・延長された背景には、イギリスに敵国が存在しないという理由があった(これは日英同盟破棄と同じような理由である)。ヨーロッパではロカルノ条約締結によって平和が実現されていた。アドルフ・ヒトラーはまだ頭角を現していなかったし、ロシアは内政にかかりきりだった。肝心の日本はどうかというと、同盟はなくなったが敵国ではないだろうというのがイギリス政府の結論であった。一九二五年に帝国防衛委員会と内閣は、日本との戦争の可能性は「まじめにとりあげるに値するような問題ではない。」と考えていた[x]。他にも、一九二四年に当時蔵相だったウィンストン・チャーチル(写真B)は以下のように書いている。

「日本との戦争ですって!しかし何故、日本との戦争が起るというのか?われわれが生きている間はそのような可能性はいささかもないと、私は信じている。日本は世界の向うの果てにある。日本はいかなる意味でもわが国の死活的安全の脅威とはなり得ない。……したがって日本との戦争は、どのような合理的な政権にとっても考慮しなければならぬ合理的な可能性ではないというのが、私の信念である。」[xi]

写真B:一九四〇年撮影

 こうしたイギリス政府の考えは、日本がイギリスに攻撃を加えることなどありえないという楽観論によるものであった。この楽観論の根拠を明らかにすることは難しいが、後述の日本の対英協調的な外交がイギリスに安心感を与えたことは間違いないだろう。その上、人種的な価値観が影響していた可能性がある。日本人や中国人に対する差別は、その後のイギリス外交を考える上で常に存在する問題である。彼らは、黄色人種で先んじて西欧化に成功した日本が、白色人種のイギリスに攻撃することなどありえないと考えていたのかもしれない。また、中国人には特有の性質があり、その性質は極めて劣悪なもので、そのせいで中国人はイギリス人に備わっている「基本的な美点」を身に付けることができないのだという人種差別的で今では時代錯誤的な考え方が広まっていた[xii]。この差別的考えには、常に混乱状態にある中国に対する失望が根底にあったのかもしれない。黄色人種の中で先んじて西欧化に成功した日本が中国に進出するのはそういう性質の中国人が悪いのだと決めつけていたことも考えられる(この時はどちらかと言えば中国人の方が軽視されがちだった)。とにかく、この時期のイギリスは楽観的な考えによって一〇年ルールを維持し(後述するように、実際のイギリスの極東防衛体制は有事の際には絶望的であった)、Ⅰ・Ⅱで扱うような問題が生じた際にはやや場当たり的に対応していた。

Ⅰ.五・三〇事件

 その最初の危機は一九二五年から二七年にかけて出現し、それは五・三〇事件に代表される。当初は単なる労働争議でしかないと考えられていたが、次第に民衆の矛先はイギリスに向いて行った。激しい反英ストと英国製品のボイコットが発生し、イギリスの対中貿易は大きな打撃を受けた[xiii]。これは中国のナショナリズムの爆発によるものである。そしてその裏には、ワシントン会議では完全に無視されていたソ連による中国の共産主義勢力への支援と、それによる国共合作があったと思われる。危機に立たされたイギリスが協力相手として期待したのが日本の軍事力であった。租界の防衛体制は非常に脆弱で、単独でこれを守るのは難しいと判断していた。これを示すのが当時の帝国防衛委員会の報告で、これによればイギリスが上海租界防衛のために使用できるのは天津の歩兵一個大隊のみで、増援としてインドの一個旅団が派遣できるがそれは到着まで五週間もかかるということであった[xiv]。先に日本がストの単独解決に成功し、イギリスも解決に成功したため、結果的には軍事力の行使はされなかった。この一連の流れで特筆すべきは、イギリスが一貫して対中強硬姿勢を貫いたことである。そしてこの強硬姿勢は、軍事力の関係上日本の協力を前提としていた。そうしたイギリスに対して日本側は、中国への干渉を極力避けるという方針を貫いた。これにより日本は調停的な役割を担うことができた[xv]。とはいえ、この日本外交(当時の外相は幣原喜重郎)にイギリスは不満を抱いたようである。しかし、対中干渉を避けてワシントン体制を遵守するという日本外交は、イギリスを日本は穏健であるという意味で安心させた側面は否めないだろう。こうした日本の姿勢が、前述のイギリスの楽観論に繋がったのである。

Ⅱ.北伐の時代

 さらなる危機は蒋介石の北伐によって現れた。北伐軍は長沙や武漢といった主要都市をどんどん占領していったが、この占領はイギリスとのトラブルを誘発した。四川省万県ではイギリス艦船が中国船に砲撃を加える万県事件が発生し、そして江西省九江の租界では領事を含めたイギリス人が全員退去させられる事件が起きた。上海租界にも戦火が及ぶことを恐れたイギリスは、一九二六年十二月に「クリスマス・メッセージ」と呼ばれるメモランダムを発した。この中では関税自主権を中国に与え、中国との円滑な関係構築に向けて努力する旨が書かれていた[xvi]。こうした姿勢は対中宥和とも受け取れるが、一方で帝国防衛委員会と内閣は一九二七年一月一七日に、インドの混成一個旅団・海兵隊員千名・巡洋艦隊を即時に派遣し、さらに日本の意図を四八時間だけ待って本国と地中海から二個旅団を派遣することを決定した[xvii]。イギリスは日本を協力相手として期待していた。この決定に基づいて、イギリスは日本に対して、最低でも華北で軍事力を行使することを求めたが、日本側は不干渉政策の下でこれを拒絶した。翌年三月には南京に北伐軍が入城し、その兵士の暴行によって列強居留民が死傷した(第二次南京事件)。この後漢口事件が起き、イギリスは再度武力行使を求めたが、日本はこれも拒絶した。当時外相のオースティン・チェンバレン(写真C)は、「幣原男爵の楽観主義(あるいは臆病さ!)は救い難い。」と語り、日本外交を批判した[xviii]。幣原ら日本政府は、ワシントン体制維持を目的としており、少しでも脱線する行動に反対していたのであった[xix]

写真C

 一九二七年四月に成立した田中内閣によって行われた第二次山東出兵において済南事件が発生し、日中両軍が衝突した。この事件はどちらが先に仕掛けたのかが現在でもはっきりしておらず、偶発的だったという見方もあるが、日中関係が大きく悪化したのは間違いないだろう。しかし、日本がやっと軍事力を行使したという事実にイギリスは満足したようである[xx]。外相チェンバレンは、「両国の考えはいまや同一軌道にそって展開している。」と語り、歓迎の意を示した[xxi]。イギリスに協力するという意味ではこの外交は「対英協調的」であった。日本は、ソ連から満州の権益を守る必要性を感じており、イギリスを協力相手として期待していた[xxii]。この対英協調的な外交はイギリスを安心させた。これも前述の五・三〇事件と同様にイギリスの楽観論に繋がったと言えるだろう。                                                             

第三章 満州事変と第一次上海事変

Ⅰ.満州事変

 一九三一年九月一八日、日本は満州事変を引き起こし、当然に中国の一部であると考えられてきた満州地方への侵略を開始した。今日ではこの事変は、日中戦争やその先の太平洋戦争の確かな前触れであったという伝説とともに語られているほか、通説的理解によればこの事変で国際連盟は大きな欠陥を露呈したということになっている。Ⅰでは、満州事変に対してイギリスはどう対応したのかについて検討する。

 結論から言うと、満州事変において、イギリスは日本の行動に対して批判的ではあったものの、対日宥和策に終始し、何か事を起こすということもしなかった。外相サイモン(写真D)は一九三一年十一月の閣議において以下のようなメモを残している[xxiii]。このメモは当時のイギリス政府の姿勢を極めて簡潔に表している。

政策―日本に対して和解的。

中国に対して―他人だけに頼らず、自らの本分を尽くせ。一六条に乗り換えるな。

日本に対して―我々は制裁適用を望まない。

なお、ここで言われている一六条とは、国際連盟規約第一六条のことで、制裁について定められていた。

画像D

 イギリス政府がこうした態度を取った理由は①満州の位置②中国ナショナリズムへの反感、の二つがあると考えられる。まず①については、満州は中国東北部に位置しており、イギリス権益の核心である上海から遠く離れていた。日本が南を目指さない限り、イギリスの権益には何の影響もないと考えていたし、その上イギリス政治の中枢にいる者たちは、日本に満州を与えてそこに押しとどめることができれば、中国内で日英のすみ分けができるだろうという帝国主義を前面に押し出した戦略を持っていた。②に関しては、イギリスは中国のナショナリズムの爆発を恐れていた。実際に彼らは、五・三〇事件や北伐ではひどい目に遭ったし、中国の利権回収運動がこのまま進めばさらななる損害を被る可能性もあった[xxiv]。そんなイギリスには、日本が中国を叩くことによって、このナショナリズムを減退させることができるのではないかいう考えがあった。

 また、日本がこうした侵略行動に出たのは仕方のないことであるという論調が幅広く見られた。メディアでは、例えばタイムズ紙は、日本軍は満州に「中国の悪政の荒野の中で豊かなオアシスを作った」として称賛し(他にはデイリー・メール紙やデイリー・エクスプレス紙が親日的態度を取った)、世論も日本は人口や経済での問題に直面しており、中国に対して強硬姿勢に出たのは仕方のないことであると考えていた[xxv]。前述の二つの考えに加えてこうした世論にも押されて、イギリスは特に行動を起こそうとはしなかったのであった。一九三三年にチャーチルはオックスフォード大学ユニオン(学生議会)に出席し、満州事変についてこう語っている。

「日本人は中国で、われわれがインドでやってきたことをやっている。満州事変はよいことである。」[xxvi]

Ⅱ.第一次上海事変

 満州事変では、イギリスの極東政策がほとんど変わらなかったことはⅠで見た。Ⅱで扱う第一次上海事変は、日本の軍事力が上海に及んだ例である。上海を常に大切にしてきたイギリスがこれにどう対応したのか、これについて検討したい。

 通説的理解によれば、第一次上海事変でイギリスは日本に対して強硬姿勢を取った。実際にロンドンの緊張感は非常に高く、一月三一日にはダウニング街一〇番地に高官が集まり、アメリカと連名で「陸海両軍が租界に急行しており、この二国は他の欧州諸国とともに日本に対して中立地帯の設定と停戦を行うように抗議している。」という主旨の声明を出した[xxvii]。こうした動きからもその解釈が正しいことが分かるが、非常に限定的かつ短期間でしかなかったことに留意する必要があるだろう。前述の声明を出した直後もサイモンは議会において日本を擁護し、連盟規約第十六条の適用を頑なに拒否していた。この理由は、Ⅰで述べたような中国ナショナリズムへの反感に加えて、①極東における軍備の脆弱さ②アメリカとの関係③内外の状況、が挙げられるだろう。①は、満州事変以前から脈々と続いてきた問題である。二月一日に海相エアズ=モンセルが首相マクドナルド(写真E)・枢密院議長ボールドウィン(写真F)・サイモンに提示した情報によれば、上海・天津・揚子江・香港・シンガポール・トリンコマリーの全ての場所で日本に対抗できるだけの軍備が存在しないということであった[xxviii]。まさに状況は絶望的であった。

写真E  

写真F 

                        

②に関しては、アメリカは協力相手になりそうな大国だった。しかし、アメリカは国際連盟に加盟していなかった上に、当時の英米間には拭い難い相互不信があった。これは両国の外交方針の違いと、両国間の意思疎通がうまく取れていなかったことにあるだろう。アメリカ国務長官ヘンリー・スティムソンによれば、イギリス政府は「うどの大木」だった[xxix]。サイモンによれば、アメリカ政府は「尊大すぎ」た[xxx]。③については、これも満州事変時から続くことであるが、当時のイギリスは内外に大きな問題を抱えていた。世界恐慌による財政難やインド自治問題、そして一九三二年二月には軍縮会議(これは失敗に終わる)が行われていた。チャーチルは戦後、この第一次上海事変へのイギリスの対応について、「財政難とますます困難になるヨーロッパ情勢に足をひっぱられていたイギリス政府が、極東でアメリカと肩を並べて重要な役割を果たさなかったことは、責められないだろう。」と書いている[xxxi]。以上の①~③の理由によって、イギリスは日本に対して強硬姿勢を貫くことができなかったのであった。そうしている間に国際連盟はリットン卿を中心とした調査団を派遣することとし、外交の場は国際連盟に移ることになる。

 第一次上海事変によってイギリスは一〇年ルールを破棄した(一九三二年三月)。当時の統帥部報告によれば、「事態はこの上なく悪」く、「極東にはわずかな海軍力しか配備されていない」ということであった[xxxii]。こうしてイギリスは軍拡に舵を切ることになったが、ここで注意すべきは、当時のイギリス財政は厳しい緊縮財政下にあり、蔵相ネヴィル・チェンバレンは破棄決定直後も戦後最小の国防予算を提出していたことである[xxxiii]。そういう意味では、第一次上海事変はイギリスに何ら影響を及ぼさなかったと言えるだろう。                            

第四章 束の間の宥和?と日中戦争

 第一次上海事変が終結し、極東危機が一旦落ち着くと、イギリスはまたも対日穏健策に転じた。これには、当時も続く厳しい緊縮財政に加えて、ヨーロッパにおいてドイツという新たな脅威が出現していたという説明が可能であろう。蔵相ネヴィル・チェンバレン(写真G)と次官ウォレン・フィッシャーは、日本との関係修復の必要性を感じ、一九三四年に日英不可侵協定締結の可能性を模索した。

写真G:中央の人物・ネヴィルはオースティンの異母弟。

 当時の彼らは親日反米派に分類することができる。フィッシャーは「世界で最もあてにならないのはアメリカの援助」であり、日英同盟は「あらゆる点で満足」、その後に締結されたワシントン海軍条約は「極めて不満」であると語っていた[xxxiv]。また、チェンバレンは対日戦争時に協力相手として考えられたアメリカに関して、「ハワイあるいはホノルルが攻撃されない限り、日本の行動に力で抵抗する約束を引き受けようとはしない」だろうと考えていた[xxxv]。日英同盟の記憶とアメリカに対する不信感がこの協定案の根底にあった。しかしこの協定は対米関係悪化を恐れた外務省などの反対によって失敗する[xxxvi]。外務省はこの協定に、日本の対中侵略を禁止する条項を加えるように要望したのであった。イギリスの穏健な対日政策の例としては他にも、イギリス政府主席経済顧問のフレデリック・リース=ロス(写真H)の来中・来日が挙げられる。彼は満州国を利用した中国に対する日英共同借款・銀本位制放棄・ポンドにリンクした管理通貨制度導入の三つを提案した[xxxvii]。これは満州国の存在を前提とした上で日本と協力して苦境の中国経済を救うという案であり、日中両国と良い関係を持ちたいというイギリス政府の思惑がにじみ出ていた。そしてこれが成功すればスターリング圏が極東に拡大するというメリットもあった。しかし、日本が拒否したために頓挫することになる。

写真H

 こうしたイギリスの政策についてどう考えるかは、幾つかの説が提唱されてきた。主に、イギリスの動きに対して日本が協力していたならば、太平洋戦争のような破滅の道を辿ることはなかったという説と、イギリスは対日宥和の必要性を感じておらず、この段階でもはや日英両国の衝突は避け難かったとする説が対立している[xxxviii]。この問題について考えるには、①当時のイギリス世論②チェンバレンらの考え、の二点に留意する必要がある。①に関しては、当時のイギリス世論は総じて反日的であった。当時のイギリスは日本との通商上の問題を抱えていた。繊維(特にランカシャー地方)・電球・コンクリート・自転車・ゴム靴などの幅広い業界で日本との激しい競争が繰り広げられていた[xxxix]。厳しい競争に直面した実業家らはそろって反日的な見解を述べており、下院ではそうした見解を反映した反日的な質問が日々浴びせられていた[xl]。また、第一次上海事変や、少し後であるが日独防共協定締結などについて反感を覚える論調もあった。例えば、チャーチルはイーヴニング・スタンダード紙への寄稿の中で、日本について「この国では、軍国主義的心性が何よりも尊ばれている。…政治的な対立相手の殺害が何年も前から当たり前の行為になっている。そこでは、信を置かれている司令官でさえ、そのやり方を生ぬるいと思う支持者によって殺されてしまうのだ。」と書いている[xli]。これは第一次上海事変から続く日本に対する不信感のあらわれだと言って良いだろう。イギリス政府はこうした世論を無視するわけにはいかなかった。こうした状況下ではイギリス政府にとって、日本との和解は日本が態度を一八〇度改めない限り不可能だったと言える。②に関しては、チェンバレンら大蔵省の親日派も対日宥和一辺倒ではなかった。彼らは、対日宥和(協調)を志向する一方で、日本との経済協力を必ずしも望んでいたわけではなかった。客観的に見て、イギリスが日本の中国における覇権を認めないならば、イギリスは日本に彼らが満足できそうな拡張場所を与える必要があった。当時ではそれはイギリス帝国に対する輸出制限緩和であると見られていた。しかしチェンバレンは一九三六年八月に、「英植民地への英国の輸出をこれ以上日本に譲ってやるつもりなどない。」とはっきり言っていた[xlii]。また、彼らは、中国におけるイギリス権益の拡大にも関心を抱いていた[xliii]。彼らには、日本に対して完全に宥和するつもりは無かったのである。二つの点を考慮すると、当時のイギリスは絶対に日本と宥和しなければいけないと考えていたわけではないし、仮にそう考えていていたとしても国内世論はそれを簡単には許さなかっただろう。

 一九三七年七月に日中戦争が勃発した。イギリス外務省には中国からの深刻な報告が相次いで伝えられた。今回のイギリスは満州事変や上第一次海事変の時のような政策はとらず、借款供与などの形で中国を積極的に支援した。さらに日本が独伊に接近しているという情報を入手すると、蔵相から首相となっていたチェンバレンの対日政策はさらに厳しくなった[xliv]。こうした一連のイギリスの強硬姿勢は、①上海租界崩壊に対する危機感②日本軍の戦力分析、によるものである。①に関しては、上海租界が崩壊するのではないかという危機感が広く共有されていた。また、この衝突は揚子江流域における「イギリス権益の最終的な消滅」の懸念も生んだ[xlv]。イギリスは中国を支援しないわけにはいかなかったのである。また、イギリスの支援によって中国がこの戦争に勝てば、中国のイギリス権益が拡大するのではないかという期待もあった。この時、戦後中国のナショナリズムの爆発の可能性(それによって自分たちが中国から追い出される可能性)は無視されていたようである。②に関しては、イギリスは日本軍の実力を甘く見積もっていた。特に海軍については、そもそも真剣に検討すらされていなかったが、当然にイギリス海軍の方が強力であると考えており、日本軍はシンガポール基地を攻略するだけの力がないと信じていた[xlvi]。この杜撰な分析により、イギリス海軍は、極東で戦争が起きてから主力艦隊を本国からシンガポールに送るという計画を立てていた[xlvii]。当時ヨーロッパではドイツとイタリアの脅威が増しており、これは明らかに現実離れした計画であった。また、こうした軍事力の軽視は、人種的偏見(これは本章以前から続く問題である)に基づいていた可能性がある。外務省のある役人は「日本人がアジア問題に関して…固執しようとするならば、われわれのほうが日本よりずっと強大なアジアの大国であることを当然主張してやるべきである。」と言ったし、一九三八年の初めには、直後に外相を辞任することになるアンソニー・イーデン(写真I)は、「極東で白色人種の権威を断固主張する」べきであると語ったという[xlviii]

写真I:一九五五年の首相在任中に撮影

 さらに、チャーチルは日本人のような劣った人種は「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」の二隻の戦艦をシンガポールに派遣するだけで抑止することができると信じていた[xlix]。この二隻は日本軍の手によって悲劇的な結末を迎えることになる。こうした「日本人など大したことはない」という偏見が対日強硬姿勢を勇気付けたのであった。ただし、こうした強硬姿勢も、常にそうであったわけではない(第一次上海事変も同様であった)。ヨーロッパではドイツとイタリアが不穏な動きを見せており、そちらにも対処する必要があった。よってイギリスは、中国を支援しつつも直接対決を避けるために時折日本を宥和するという戦略を取った(というより取らざるをえなかった)。これに関しては、一九三九年の天津租界封鎖においては陰鬱なヨーロッパ情勢を考慮して日本の要求を認めたことが例として挙げられるだろう[l]。その後、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、イギリスは大陸からの撤退を強いられる。それ以降はアメリカの参戦によって極東が救われるまで、イギリスはほとんど何もできなかった。

おわりに

 戦間期イギリスの対日政策は、基本的に楽観論に支配されていた。この楽観論により日本の横暴に対処すべき時機を逸し、アジアは戦場となった。こうした批判も可能であるが、イギリスには日本に対抗する手段がなかった。イギリスの財政難は深刻で、その限られた予算は、本土防衛の方に優先されていた。さらに、当時のイギリス世論は第一次世界大戦の経験からか、総じて反戦的だった。日本のせいで中国や権益が危機にあったとしても、世論が遠い中国でイギリス兵が命を落とすことを許容するとはとても考えられなかった。そうした中で日本を甘く見たのは仕方のないことだったかもしれない。楽観論に対する批判は、こうした事情を加味した上でされるべきで、安易に行われてはならないだろう。

 また、「はじめに」で、戦間期イギリスの外交テーマは「いかに帝国を安く守るか」であったことはすでに述べた。安く守るということは、戦争を避ける必要があることを意味していた。さらには、戦争に発展する可能性のある対立も同様であった。そうした外交テーマの下では、拡張を志向する日本とどういう妥協を行うか、それしか工夫の余地はなかった。工夫によってなされた妥協も、最終的には無駄だった。戦間期イギリスは、最初から自身の手を縛った状態で外交を行っていた。そういう外交では、日本との衝突は不可避だったとも考えられるだろう。

 イギリスにとって戦間期とは、それまで築き上げてきた世界的な覇権を緩やかに失ってゆく過程であると共に、帝国の再編を試みた期間でもあった。この期間中にイギリスは、世界的にはウェストミンスター憲章やオタワ連邦会議によるスターリング圏構築などの取り組みを行った。そして極東においては、日本との帝国主義的妥協によって中国権益を保護しようとした。しかし、それは日中戦争とその後の太平洋戦争という形で失敗した。失敗の代償は非常に高くついた。アジアを救ったのはアメリカであり、イギリスはアジアから追放された[li]。さらに、アメリカがその後の世界の覇権を握り、ソ連が対峙した。イギリスはこの二国に挟まれた第三国に完全に凋落した。イギリスは帝国を失い、「哀れなロバ」となったのであった[lii]

参考文献

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細谷千博『両大戦間の日本外交』岩波書店、一九八八年。

細谷千博(編著)『日英関係史 1917~49』東京大学出版会、一九八二年。

ポール・ケネディ(山本文史訳)『イギリス海上覇権の盛衰 下―パクス・ブリタニカの終焉―』中央公論新社、二〇二〇年。


[i] 筒井清忠『満州事変はなぜ起きたのか』、中央公論新社、二〇一五年 八九頁。

[ii] 細谷千博(編著)『日英関係史 1917~49』東京大学出版会、一九八二年 四八。頁

[iii]A.J.Pテイラー『イギリス現代史 Ⅰ』みすず書房、一九六八年 一三五頁。

[iv] クリストファー・ソーン(市川洋一訳)『米英にとっての太平洋戦争 上』草思社、一九九五年 四二頁。

[v] 同書、一〇五頁。

[vi] 細谷、前掲、六頁。

[vii] 日本側の詳細な反応については、同書六~七頁。

[viii] 佐々木雄太(編著)『世界戦争の時代とイギリス帝国』ミネルヴァ書房、二〇〇六年 二二四頁。

[ix]ソーン、前掲、五〇頁。

[x] 同書、六九頁。

[xi] 河合秀和『チャーチル 増補版』中央公論新社、一九九八年 三二四頁。

[xii] ソーン、前掲、七〇頁。

[xiii] 佐々木、前掲、二二九頁。

[xiv] 同書、二三二頁。

[xv] 筒井、前掲、九〇頁。

[xvi] 細谷千博『両大戦間の日本外交』岩波書店、一九八八年 八九頁。

[xvii] 佐々木、前掲、二三二頁。

[xviii] 筒井、前掲、九六頁。

[xix]日本側の詳細な対応については細谷、一九八八、九四~九八頁。

[xx] 細谷、一九八二、十一頁。

[xxi] 細谷、一九八八、一〇〇頁。

[xxii] 細谷、一九八二、十二頁。

[xxiii] 同書、四頁。

[xxiv] 佐々木、前掲、二三五頁。

[xxv] ソーン、前掲、一八三頁。

[xxvi] 河合、前掲、三二五頁。

[xxvii] クリストファー・ソーン(市川洋一訳)『満州事変とは何だったのか 下』草思社、一九九四年 十九頁。

[xxviii] 同書、五八~五九頁。

[xxix] 同書、八四頁。

[xxx] 同書、八七頁。

[xxxi] ウィンストン・チャーチル(伏見威蕃訳)『完訳版 第二次世界大戦1―湧き起こる戦雲―』みすず書房、二〇二三年 九四頁。

[xxxii] 同書、九三頁。

[xxxiii] A.J.Pテイラー『イギリス現代史 Ⅱ』みすず書房、一九六八年 四二頁。

[xxxiv] 細谷、一九八八年、一一九頁。

[xxxv] 佐々木雄太『三〇年代イギリス外交戦略』名古屋大学出版会、一九八七年 一九四頁。

[xxxvi] 日本側の詳細な対応は同書、第四章。

[xxxvii] 秋田茂『イギリス帝国の歴史―アジアから考える―』中央公論新社、二〇一二年 二一九頁。

[xxxviii] 佐々木、二〇〇六、二三七頁。

[xxxix] 木畑洋一、イアン・ニッシュ、細谷千博、田中孝彦(編著)『日英交流史 一六〇〇~二〇〇〇 2 ―政治・外交Ⅱ―』東京大学出版会、二〇〇〇年 三六頁。

[xl]同書、四〇頁。

[xli] 同書、三六頁。

[xlii] 同書、四〇頁。

[xliii] 同書、四一頁。

[xliv] 同書、四六頁。

[xlv] 佐々木、二〇〇六、二三八頁。

[xlvi] 同書、二三八頁。

[xlvii] ポール・ケネディ(山本文史訳)『イギリス海上覇権の盛衰 下―パクス・ブリタニカの終焉―』中央公論新社、二〇二〇年 一八七頁。

[xlviii] クリストファー・ソーン(市川洋一訳)『米英にとっての太平洋戦争 上』草思社、一九九五年 七〇頁。

[xlix] クリストファー・ソーン(市川洋一訳)『米英にとっての太平洋戦争 下』草思社、一九九五年 四七八頁。

[l] 佐々木、二〇〇六、二三九頁。

[li] 前掲の『イギリス現代史 Ⅱ』の二四四頁によれば、日本敗北後のイギリス軍は、マッカーサーの許可を待ってから日本軍の投降を受け付けていた。

[lii]河合、前掲、二九九頁。テヘラン会談時にチャーチルがイギリスをロバに喩えた。

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