文学部文化史学科 矢田主蒼空
私が住んでいたのは浜松の市街地の一角、駅から徒歩15分ほどの旧東海道沿いの町であった。戦争が始まってから、空襲に備えた防空壕が町ごとに一つ設置されるようになった。私自身の家にも防空壕が一つあった。
B29が愛知県の豊橋に飛来すると、浜松に空襲警報が鳴り響くようになっていた。「飛行機が来たら爆弾が落ちてくる」と聞かされていたため、警報が聞こえると、必ず防空頭巾をかぶって防空壕に避難していた。B29が浜松上空に飛来し、爆弾を落として飛び去って行くのは、警報が鳴ってから30分後。「ブワ―――ン」というエンジン音が聞こえたときの怖さは、今でも鮮明に覚えている。
昭和18(1943)年頃のことであっただろうか。空襲警報が鳴り、家族とともに防空壕へ避難した。その防空壕はかなり広く、入り口も2つあった。だが、町民の他にも、偶然通りかかった通行人やふとんを抱えた人も入ってきたため、程なくして満杯になり、入るのを拒否された通行人もいた。やがて空襲が始まり、しばらくしたその時、突然の爆風で私の体が宙に浮き、その直後すさまじい音が防空壕の中を埋め尽くした。防空壕の中の、私と家族がいた場所とは反対側のところに、爆弾が直撃したのだ。そこにいた人々はみな亡くなった。空襲が終わった後、遺体の運び出しが終わった防空壕を見ると、爆弾が直撃した部分がすり鉢状に大きく窪んでいた。程なくして、亡くなった町民の葬式が行われた。私はまだ五歳で、亡くなった町民のなかに知り合いや親しい人はいなかった。家族もみな生き残ったため、「助かってよかった」「誰も死ななくてよかった」という思いが一番だった。
その後程なく、市街地から離れた細江町に住んでいた父方の兄から、「町は空襲で危ないからこっちへ来いや」と声がかかり、家族五人みなで疎開した。細江町には泊めてもらえる家がなく、防空壕の中での生活だった。自分が入った防空壕に爆弾が直撃したあの日を思い出され、とても怖かった。幼稚園も途中から行けなくなってしまった。また、私が疎開する前には、道行く人を狙った米軍機による機銃掃射が細江町で起き、死者が出ていたらしい。疎開後も町の人が米軍機に狙われたことがあったが、上手く隠れて助かった。そして、昭和20(1945)年、浜松が大空襲に遭った日、私は細江町から燃えている浜松の町を見た。焼夷弾が落ちる「ヒュルヒュルヒュルヒュル」という音を今でも覚えている。
戦争が終わり、私と家族は農地改革に伴う開墾のために、浜松の町から少し北にある高丘に移り住んだ。高丘には練兵場(現在の航空自衛隊浜松基地)があり、終戦後は米軍に占拠されていた。そのため、米軍のジープが夜に走り回った。何をされるかわからないという怖い思いから、走行音が聞こえると決まって縁の下に隠れていた。
ある日、学校から帰る途中、桜の木をふと見ると、そこには遺体がぶら下がっていた。不発弾を踏んでしまったらしい。本当に怖い思いをした。
空襲に逃げ回った経験、ジープの音や不発弾に当たった人の遺体を見聞きした経験は、どれも子ども心にとってとても怖いものであった。その中でも、知人を誰一人失わなかった私は恵まれていると感じている。
感想
著者の母方の祖母の戦争体験を伺った。祖母の山田浪恵氏は、幼い時に故郷の浜松で経験した空襲、疎開、戦後にまで続く戦争に関する怖い思いを話してくださった。浜松は練兵場など軍部関係施設が多かった。そのため、「爆弾のゴミ捨て場」と形容されるほど度重なる空襲を受けたのみならず、海岸からの艦砲射撃も加えられ、広範囲が甚大な被害を受けた。自身が入った防空壕に爆弾が落ちた話は、著者が小学生の時から伺ってきた。しかし、今なお記憶に残る他の恐ろしい経験や、幼いながらも克明に刻まれた戦争への恐怖を伺い、先の戦争がどれだけ多くの市民に膨大な恐怖を与えるのかを改めて実感するに至った。実際に戦争を経験された方が話す言葉に宿る重みを確かに感じた。また、小学生の時に祖母は、「もし私が防空壕の中でも爆弾が落ちた方の場所にいたら、あなたは生まれてこなかったんだよ」と仰っていた。我々が令和の現在に生きていることが、どれほど起こり得なかったことであるかを痛感した。

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